2011年6月15日水曜日

「明治2年弘前絵図」発刊



 ようやく「明治2年弘前絵図」の本が印刷されてきました。現物を見るとうれしいものですが、わずか90ページくらいのあまりに薄い小冊で、お恥ずかしい次第です。もう少し時間をかければ、より正確なものに仕上がったかもしれませんが、こういったものは勢いがないと、なかなか出版もできませんので、えいやという雰囲気で出版してしまいました。怖くて読む気もおこりません。多分、読者の多くから訂正のおしかりを受けると思いますが、素人のしたこととしてお許しいただきたいと思います(家内がちょうと読んで、すでに間違いを発見。前川国男を前田国男と間違い。テープを貼って直すと思うと憂鬱です。インターネットでご購入の方は修正なしでお送りしますので、自分で訂正してください。)。

 ただメインは付録のCDで、これはめずらしいものと思いますし、こういった形でデジタル化することで自由に拡大、回転もでき、検索するには非常に便利です。データは生データをJ-pegで圧縮し、できるだけ容量は小さくしたつもりですが、それでも40Mくらいあり(生データーは1.4G)、古いコンピューターでは重くて時間がかかるようです。私の持っているアップルのMac-bookProではトラックパッドが便利で、片手で自由に拡大、回転、移動ができるため、誰かの家を地図上で探すとなると実際の地図そのもので探すよりはるかに便利です。Windowのvistaでは問題ないと確認しましたが、機種によっては見られない可能性もあり、もしそういった不具合がありましたら、ご勘弁いただくようお願いします。たぶん重いですが、大丈夫だと思います。

 300部印刷しましたが、結構贈呈する人も多く,また手持ちにもある程度置いておく必要もあり、100部くらいが市販できると思います。一冊1500円で販売します。メールあるいはファックス、ハガキで連絡先、お名前をお知らせいただければ、発送いたします。現金書留か全国共通図書券でも結構です。本の到着後にお送りください。なお弘前在住の方であれば、直接診療所にきていただければ、その場でお渡しします。100部なくなり次第、終了としますが、おそらくそれほど売れないと思いますので、弘前市内の紀伊国屋書店でも受託販売できるか、検討してみます。まずはインターネット上での注文を優先いたします。

 これまで専門の歯科関係のものは、雑誌や本に掲載されたことがありますが、こういった門外漢のものについては全く初めての経験で、変な緊張感があります。今時、電子出版という方法もありますが、やはりこういった現物として本にすることに意味があるように思えます。ただ記録媒体として、CDの寿命は約10年、西洋紙の寿命は100年と言われ、この小冊もそういった意味ではあっという間に使い物にならなくなってしまうようです。それに引き換え、和紙の寿命は1000年と言われ、この明治2年弘前絵図も大切に保存できれば1000年の寿命はあるようです。

 一応、ひとまずケリがつきましたので、弘前大学に現物はお貸し、専門家の研究、調査を行っていただき、その後博物館なり図書館に寄贈するつもりです。何の因果が私のところにきた古地図が、こういった形であれ、本となった点については、満足しており、義務を果たした気がします。それでも本の巻末にも書きましたが、日本近代演劇の父、小山内薫の父小山内建(玄洋)、考現学の創始者今和次郎の父今成男の家は最後まで発見できませんでした。また弘前城北の丸の作業所の説明文「苫縄、簾垂、能?尾、網藁諸品入所」の3つ目の字が解読できません。紀伊国屋書店の漢和辞典を立ち読みしたり、中世史の専門家の意見も聞いてみましたが、いわゆる崩し字ではなく、作者特有のくせ字のように思えます。もし読者の中でわかる人がいればお教え願いたい。おそらく植物加工品の一種と思われますが、ついにわからないまま残りました。

 PS:前回、大久保堰について書きましたが、「津軽つがる・おべさま年表」を見ると、すでに寛永、慶安の弘前初期の町割略図でも大久保堰は、田町最勝院裏から今とほぼ同じルートを通って、岩木川に繋がっているようです。寛永、慶安というと1624-1650年ころですから、今から360年以上前からすでに大久保堰があったということです。当時、岩木川は紺屋町付近で二手に分かれ、一方は西堀付近を通っていたようで、その後、一方の岩木川はせき止められ、西堀となっていったようです。田町から紺屋町までの大久保堰は360年以上の歴史をもつ、相当古い堰であったことがわかります。これは驚きです。

1 件のコメント:

kasatetu さんのコメント...

「明治2年弘前絵図」の発刊、おめでとうございます。
 私は東京在住ですが、来週、帰省の際に購入します。