2011年6月26日日曜日
武士の顔
「幕末維新の暗号」(加治将一著、祥伝社文庫)を読んだ。内容は有名なフルベッキ写真の謎を迫ったもので、西郷隆盛、勝海舟はじめ明治の有名人の多くが写されているという代物である。
内容は、ややこじつけめいており、実在の人物とフルベッキ写真を比較し、その多くの写真が本物だとしていているが、骨格、特に下あごの形が違っており、私には納得しにくい。
ただ上下のあごの形態を常日頃観察している矯正歯科医の立場からすれば、専門用語で言うと、Skeletal Class II, high angle case, Dolico Facialというタイプが非常に多いのにびっくりした。このタイプは下あごが上あごより小さく、後ろに回転しているもので、かみ合せとしては多くは上顎前突(出っ歯)を示すが、その他には叢生(でこぼこ)や反対咬合(受け口)の形を示すこともある。
上あごに比べて下あごが小さく、後方に回転しているため、口はいつも開いていて、閉じにくい。そのため無理に口を閉じようとすると、上唇は下にもってこれないので、下唇を上に持ち上げて、閉めることになる。オトガイ部にあるオトガイ筋は緊張するため、うめぼしのようなしわがここによることになる。
こういった人物をフルベッキ写真上で探すと、半数近い人物にその傾向がある。現代日本人にもこのような骨格の人は比較的多いが、それでもこれだけ高い割合を占めることはない。せいぜい数パーセントの割合であろう。昔、欧米人から見た日本人のイメージといえば、出っ歯にメガネと言われていたが、今ではそういったイメージで捉えられることは少なくなった。下あごが発達し、オトガイが突出している白人から見れば、明治期の日本人は醜いものであったのであろう。
鹿児島大学にいた時の、教室の主要研究テーマは食物の軟化傾向による下顎骨の発達不全で、柔らかいものばかり食べる現代人は昔の日本人より下あごの成長が悪く、そのためでこぼこが多いというものであった。この考えからすれば、明治期のこの群像写真の例は説明できない。明治初期の日本人の食物は現在よりよほど硬い物を食べていたであろうし、人口乳(哺乳瓶哺乳)がなかった当時で、それが下あごの発育不全を招いたとも言えない。単純に写真の撮られた佐賀にこういったタイプのひとが多くいたとも言えるし、また撮影時間が長かったため緊張のあまり、顔にぐっと力を入れすぎたためかもしれない。
人類学的な見地からすれば、北九州は縄文顔より弥生顔の多い土地であり、そのため一重まぶた、下あごのきゃしゃなタイプが多かったせいかもしれない。さらに下あごの後方回転をおこす原因として姿勢の問題がある。猫背であごを前に出すタイプ、前方頭位では下あごが後方回転しやすい。それでは昔は今よる姿勢が悪かったというと決してそういうことはなく、畳に長時間座っていることが武士階級では当然であった。ソファーでごろごろ横になっていたわけではない。
「正座と日本人」(丁 宗鐵著、講談社)や「日本人の座り方」(矢田部英正著、集英社新書)を見ると、今のような背を伸ばす正座は明治以降のもので、それまでは立て膝や胡座など色々な座り方があり、正座においても長時間座るため、背を丸め、足がべたっとなった座り方をしていた。背筋を延ばした状態では長時間座ることは相当な背筋力を必要としたため、少し背を丸め、バランスをとるため顎を上に持ち上げる方が楽であったのであろう。武士では畳に横になることは無作法なためできるだけ楽で長時間座れる姿勢、足をべたっと床にたたみ、背をまげ、あごを前にでる座り方が通常な姿勢であったのであろう。立て膝、胡座でも同様、バランスをとるためあごを少し出す必要がある。武士の座っているところの写真を見ると、多くの場合、時代劇で見るような背を延ばした正座ではなく、少し背を丸め、頭を前に出して、あごを前に出している。同様に歩き方、走り方もいわゆる「ナンパ走り」というやり方、膝、背を少し曲げて歩く。
こういった江戸時代の武士の姿勢からは、起きている時間の多くは、背をまげ、頭を前に突き出し、下あごを前に出す姿勢、前方頭位が一般的であり、それが下あごの後方回転を招いたとの仮説が考えられる。明治以降の背をのばした正座の普及、さらに戦後の椅子生活が、オトガイが前に出た白人顔を作った可能性もある。もう少し考えてみたい。
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