2023年5月23日火曜日

橋本関雪と土屋嶺雪

 









橋本関雪の名を知る人は少ないと思うが、明治、大正、昭和を代表する日本画家である。早熟の天才、明治16年生まれで、12歳ですでに第4回内国勧業展覧会に出品し、25歳で文部省美術展覧会(文展)に入賞し、その後も3回の特選となってから無鑑査となり、日本画壇の第一人者となった。画風も広く、南画から大津絵、歴史画、花鳥まで、基本は四条派であったが、貪欲であらゆるジャンルの絵に挑戦していった。その画業についてはまとまった本がなかったが、今回、始めて「橋本関雪 ―入神の技・非凡の画」という本が出版され(求龍社、2023)、その全貌を見ることができた。.

 

この本を読むと、橋本関雪は天才だと思う。画家の才能というのは、まず技巧的な技術面での天才性を挙げたい。例えば、浦島太郎を絵にしろと、言われても、我々のようの素人にはまず、絵として描けない。さらに普通の才能のある画家にすれば、なんとか絵にはなると思うがリアルさには欠けるだろう。その点、橋本関雪は完璧な浦島太郎を描けるだろうし、それも短期間で描くであろう。こうした才能は、この本を読むと確信的となる。本当にうまい。

 

私は集めている土屋嶺雪もうまい画家で、この橋本関雪の弟子あるいは友人として知られる。土屋嶺雪は明治14年(1881)に埼玉県川越生まれとされる。橋本関雪より2歳早生まれである。その後、橋本関雪の実家である兵庫県明石市に大正から死ぬまで(1965)まで住んだ。橋本関雪の父親は、明石藩の儒者であったことから、活躍時期も同時代であったことから、橋本と土屋とは面識があったと思う。ただ両者の生き方は全く違う。橋本関雪が多くの賞を得て、最後は昭和9年に帝室技芸員に選ばれ、日本画壇の最高位となったが、土屋嶺雪は一切の展覧会に出展しなかった。

 

おそらく想像であるが、橋本と土屋はどこかで接点があり、橋本関雪の才能に圧倒され、それが土屋嶺雪の進路に影響を与えたのだろうと思う。今でこそ、絵画は技術より表現内容が優先されるようになったが、戦前まで、特に日本画においては、絵の上手さが重要であった。たとえば野球の世界で、ほぼ同級生に大谷翔平がいたらどう思うであろうか。ピッチャーでも打者でも、明らかな違いがわかり、どう頑張って練習しても、追い越せないと悟る。流石に野球をやめないとしても、大リーグどころか、地元の草野球レベルの選手で満足することもあろう。おそらく土屋嶺雪にとって橋本関雪は大谷選手のような存在であったのだろう。こうした場合は、絵画手法を変えたり、主題も橋本関雪も被らないものを選んでも良さそうだが、土屋嶺雪は橋本関雪と同じような山水、花鳥、そして歴史画をメインにしている。意図的に同じような主題を選んでいるようであるが、嶺雪が関雪を超えることはない。写真の橋本関雪の竹、鳥(ハッカ鳥)、雪を描いた絵は、「銀雪呈瑞」は題されている。突然の雪景色は中国では瑞祥の表れと言われ、ハッカ鳥は南国に住む鳥であることから、南国に降った珍しい雪という意図もある。それに比べて土屋嶺雪の絵も上手いことは上手いのだが、ハッカ鳥と木蓮、そしてバラが描かれ、画自体に深みはない。生活のため、売るための絵である。

 

ただ画家がどのように生活しているかといえば、展覧会などで大型な絵を発表する一方、生活のためには、もっと小型、床の間の掛け軸のような小品を売って、生活費としている。展覧会によって名前が有名になれば、大型の作品、4曲、6曲の大型作品にも大金持ちから注文がきて、橋本関雪も裕福になっていったのだろう。一方、通常の画家の場合は、大きな作品はあくまで展覧会用で、売る商品ではない。というのは屏風となると、普通の家では飾れないし、大きな家、美術館、寺などが主な購入先となるからである。

 

同時期の日本画の巨匠としては、菊池契月、西山翠嶂、松林桂月などがいるが、明治12年生まれの契月は人物画、明治9年生まれの桂月は花鳥が得意で、いずれも年上で、同世代となると明治12年生まれの西山翠嶂と少し若いが明治19年生まれの野原櫻州くらいである。力量からすれば翠嶂がライバルであろうが、画力の幅となると西洋絵画の表現力を取り入れた橋本関雪に軍配があがる。

 

いずれに時代も画家として生きていけるのは、才能のある中でもさらに一握りであり、そして後世に名を残すのはさらに少数となる過酷な職業である。大変である。橋本関雪も戦前は、日本代表する画家であったが、今はそれほど認知度が高くない。



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