2023年11月7日火曜日

昭和50年代の仙台

 



私が一浪の末に東北大学の歯学部に進んだのは1975年のことである。当時は1、2年生は川内の教養部のキャンパス、3年生からは学部教育となり歯学部に移った。教養部は、履修必須科目とそれ以外の科目に分かれており、履修必須科目は医学部、薬学部、歯学部が一緒になることが多いが、それ以外の科目はどの学部でも受講できた。その際に役立ったのは、鬼仏帳という、単位を取れやすい科目と取れにくい科目の一覧が載った冊子で、学生必需品で、それを参考に選択科目を選んだ。それでも間違って最も苦手な物理を履修してしまい、周りは理学部と工学部の学生ばかりで、これは厳しかった。一方、中国哲学を受講し、好きだった韓非子について数冊の本と図書館で論文を調べて20ページくらいのレポートを出したら、担当教授から誉られ、A+の評価を受けたのは嬉しかった。それでもまだまだ学園闘争の残火があり、教科によっては教授室が学生たちによりバリケートで固められ、いつも休講のまま単位をくれたりした。

 

当時の歯学部は80名いたが、女子は10名くらいで、今とは違い男子が多く、仙台第一と第二高校が多く、他は日本各地から集まった。それまで40名定員であったのが、入試募集が終了してから80名になる、倍率が半分に下がったクラスで、あまり優秀でない学年であった。この学年からは教授も出ていない。次の学年は、入試の最高得点者は医学部より上で、医学部の合格点数をクラスの1/3が超えていた優秀な学年で、多くの教授を輩出した。中学高校でサッカーをしていたので、歯学部でもサッカー部に入った。部員は1213名くらいでかろうじて試合ができる人数であったが、我々の学年から3名、それも中学高校でサッカー経験者であったので、大歓迎であった。それまで大学に入るまでサッカーをしたことはない部員ばかりで、試合をしても勝ったことがないチームであった。私は元々ゴールキーパであったが、6年生の先輩がすでにゴールキーパーをしているので、念願だったフィールドプレーヤとしてセンターバックをすることにした。同級生が国体代表選手で、次の年からはほぼ学年に一人くらいは国体代表選手が入部するようになり、3年生の頃は創部以来一回も勝てなかった医学部サッカー部の勝利し、5年生の時は全国の歯学部の大会で準優勝となった。その後の歯学部サッカー部の歴史でも最高結果であった。

 

グランドの賃貸の関係で、練習は週に3回ほどで、授業の終了する5時頃からなので、冬場は正味1時間くらいの練習であった。練習終了後は、歯学部の学生棟に戻り、その後は、決まって医学部前にあった山田屋という食堂で夕食をとった。ここのメニューは全て大盛りで、残すとひどく怒られ、量を食べられない女子はそもそも入店を断られた。アパートは上杉5丁目にあった上杉荘というところで、2階の8畳くらいの部屋に住んでいた。風呂なし、トイレは一階の共用で、家賃は2万五千円くらいであった。仕送りが10万円くらいだったので、バイトもしないで余裕で生活できた。テレビ、こたつ、ラジカセ、ベッド、炊飯器、ストーブと小型冷蔵庫くらいしかなく、8畳もあれば十分に広かった。週に三度、近くの銭湯に行き、歯学部に行くのは3万円で買った片倉のロードレーサーで通学した。ノースフェイスの60/40パーカーに、タウチェのデイパック、リーバイス501、アディダスのスタンスミスというのが定番のファッションであった。

 

教養部は比較的自由であったが、学部に進むと、ほぼ9時から16時まで授業がびっしりあり、高校生と同じで、そして厳しい試験がある。5年生、6年生になると授業以外にも実習や臨床も付け加わり、食べて寝る生活となる。それでもサッカーは息抜きもあって卒業するまで続けた。

 

携帯電話もネットもない時代の若者は何をしていたか。これは戦前、テレビもなかった時代の若者は何をしていたのかと同じで、結構忙しくしていたということになる。朝の8時に起きて、大学に行って、部活をして、夕食を食べ、銭湯に行くと、帰りは9時頃になり、テレビを見たり、本やマンガを読んで、12時頃に寝る。日曜日は、名画座に行って2本立ての映画を見て、お昼はナポリタンや吉野家の牛丼を食べ、一番町をぶらぶら、喫茶店モーツアルトでコーヒーを飲みながら買ってきた本を少し読み、帰る。暇な時はコインランドリーで洗濯し、アイロンしたり、自炊をしたりする。スマホやネットがなくても、これっぽっちも退屈ではなかった。

 

子供の頃から家にはテレビがあり、ステレオ、本やマンガもあったから、こうした生活はネットが家庭に入る頃まで続いた。携帯電話の存在はそれほど生活そのものを変える存在ではなく、ズバリIPhonの登場が生活を一変させた、登場したのは2007年、普及したのは2010年以降で、ようやく今の高校生くらいからIPhoneの世代となる。私が大学に入った1975年というと今から48年前、その48年前というと昭和2年。昭和2年と昭和50年のギャップを考えると、今と1975年のギャップは驚くほど小さい。時代の変化は少なくなってきているのか。


0 件のコメント: