昭和史は、以前から興味をもつジャンルで、若い頃からなぜ日本が無謀な戦争に突入していったのか、不思議でならなかった。日清、日露戦争まではわかるし、満州事変まではぎりぎり理解できる。ところが支那事変後、太平洋戦争への過程が全くわからない。普通に考えれば、戦争というものは作戦目的があるはずで、日露戦争でもある程度、戦った後にロシアと和睦する計画であった。ところが支那事変では、参謀本部が反対しているにも関わらず、現地軍が戦争の拡大を主張し、結果的に泥沼の長期の戦争に突入していき、そして支那事変が太平戦争に繋がっていく。中国全土を占領しようと考えたのか。結局、戦略上、もっともしてはいけないこと、中国軍と米軍の二方面作戦となり、この時点でゲームは投了である。そう考えると、支那事変は、盧溝橋事件を契機としたものの、その後の戦闘の拡大の方が決定的であり、もしここで停戦し、日本が満州経営のみに専念していたなら(石原莞爾の考え)、アメリカとの戦争はなく、国民党が共産党を壊滅させ、満州以南の中国を統一したであろうし、日本も本州、朝鮮、満州を衛星国にしたままだったかもしれない。
それ故、支那事変の端緒は、その後の日本の歴史を決めたと言っても過言でなく、重要な分岐点となる。従来の私の理解では、上海、南京侵攻となる支那事変の拡大は、現地軍の暴走であり、それを陸軍本部、政府も当初は拡大を禁止したが、ずるずると戦果の拡大に伴い事後了承していき、増兵したと考えていた。ところが「多田駿伝」(岩井秀一郎著、小学館、
2018)によれば、この構図は違う。確かに支那事変の初期は、現地軍の暴発であり、天皇、政府、軍部ともに戦闘の拡大に反対していた。そして中国との停戦を模索していて、かなりのところまで話がまとまっていた。ところが戦果が拡大し、上海、さらに中華民国の首都、南京を占領すると、マスコミ、国民ともに熱狂し、この時点ではもはや停戦を言い出せなくなった。政府、近衛首相、広田外相、米内海相、杉山陸相も停戦に反対するようになり、この時点になっても多田駿参謀次長(参謀総長は皇族なので、実質的には参謀部のトップ)のみが徹底的に反対した。和平派のように思われる米内光政海相も、「統師部が外務大臣を信用せねば同時に政府不信任なり。政府は辞職の外なし」と多田があくまで反対を主張するなら、政府は解散すると脅している。陸相を出さないと政府を脅したと同じ手法をここでは米内が使っている。近衛首相、広田外相も同様に腰砕けになり、最後は積極的に戦争の拡大を支持している。結局、中国との和平工作は多田以外すべて交渉打ち切りを主張し、多田は「明治大帝は朕に辞職ないと宣えり。国家重大の時期に政府の辞職云々は何とぞ」と涙ながら訴えたが、最後は参謀次長が反対するなら政府は解散すると脅され、政局の混乱を恐れて、「あえて反対を唱えない」となった。その後、参謀次長の座を追われ、第三軍司令官、陸軍大臣に押されるも反対され、そのまま昭和十六年に予備役となる。
本というのは、作家の視点により書かれるため、城山三郎の「落日燃ゆ」を読めば広田弘毅の和平への強い思いを感じるが、「多田駿伝」を読めば、この日本の重要局面で、敢て反対しなかった近衛、広田の責任は免れなく、戦犯として裁かれるのはある意味、当然だったかもしれない。
こうしたことで思い出すのが、イラク戦争における日系アメリカ人エリック・シンセキ大将の態度である。陸軍参謀総長である彼は、イラク戦争にあくまで反対し、ラムズフェルト国防長官から解任され、退役させられた。オバマ大統領は、その後、「シンセキ氏は権力に対して真実を述べることを、決して恐れなかった」と讃えた。多田とシンセキは立場も全く同じで、悪者扱いされる日本陸軍、ことに参謀部でも、多田の抵抗は唯一評価されるものである。多田の勇気ある行動は、小さいことだが、現在問題になっている森友問題でも、なぜ文書書き換えは絶対にできない、NOという公務員がいないかに通じることで、その功績は後世、十分評価しなくてはいけない。そうした点では「多田駿伝」は意義ある本である。
「多田駿伝」には陸軍大将になった頃の多田の写真が表紙になっている。年齢はとみると、59歳当時の写真である。以前、調べた南雲忠一中将もサイパンで亡くなったのが59歳。当時の写真を見ても驚くほど老けている。確かに昔は60歳を過ぎると、老人になったとしても、軍人の老けようは早い。相撲取りもそうであるが、老けやすい職業というのがあるのではないか。若いころから責任ある地位になると、自然に貫禄がつき、老けてみえるのだろう。
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