2023年8月6日日曜日

菱川やす 5

 





以前、このブログで取り上げた“菱川やす”に関する新しい情報を、多岐亡羊さんという方からコメントいただいた。アメリカの女子医科大学に留学して、女医となった菱川やすについては、何度かブログで取り上げたことがあるが、その背景がわからなかった。お教えいただいた情報から少しわかったので、報告したい。

 

鐵城記寿録(村居鐵次郎、昭和17年)という本の中に、「維新後最初の女ドクトル菱川安子」という章がある。これによると

 

菱川安子は、出身地は名古屋で、菱川篤三の次女。明治4年にできた横浜女子共立学校に入学し、学業の成績はよく、明治11年に卒業すると同時に、母校の教師となった。明治1415年の頃、東京の大倉という人のところへ嫁したが、呑兵衛で家庭的に恵まれず、本郷の教会などに牧師として働いたことなどあり、不幸、二、三年にして横浜に戻ることになった。明治18年中、芝愛宕町の慈恵医院に、看護婦養成問題が台頭して、同院の院長、高木兼覚を初め、上流夫人側では、伊藤、山縣、大山などの奥様連が世話役になって、馬力をかけたので、義金(6478)が立所に集まり、米国から、ミス・リードという女博士を招聘したが、博士さっぱり日本語が通じない。そこで見出されたのが、菱川安子さんで、慈恵医院へ頼まれてきたのが、その年の8月であった。準備万端整えて、その十月に開所式が挙げられ、爾来多くの看護婦が養成されるようになった。通詞になった安子さんは、開所と共に慈恵医院に在勤一年ばかりした時、石川県金沢の医学校へ、ミセス・ポートルという医学博士が教師として招聘されて来た。やはりリードさんと同様、日本語が少しもできないところから、またも安子さんが通詞として招かれ、赴任して一年ばかり、その博士に日本語を教え、同時に安子さんは、その博士に医学を習った。その結果、ポートル博士及びリード博士から、アメリカ行きを勧められ、ついに決心して、明治20年の歳末両者の推薦状を持って、シカゴ市の医学専門校へ留学し、西暦1889年(明治22年)ドクトル・オブ・メジチーネの学位を得て、さらに請われて一年を看護婦校に学んで、帰朝した。時に明治2210月のことである。当時の写真おおび卒業証書が残されている。帰朝後、名古屋、京都を物色し、それぞれ準備をして、病院開始を計画し、経済上にもかなり苦労をしたのである。幸いに準備がなったので、位置を京都と定め、24年の半ばに上京区新町通り上立売に病院を開き、多くの人を置いた。排外主義一点張りの当時としては独特の女医として、新貴重の新式治療として盛況をみ、四十有余の室では足らないくらいの患者があって、付近の病院から羨まれるほどであったが、天、女医に恵み薄きと、元来浦柳の性質とに禍いされ四年ほどの歳月を消費して、停院の止むをえざるに至った。是非なく、明治29年に横浜に戻り、父母のもとで静養に努めた。しかもただ単に籠居するのも、健康上如何にと、攝養旁旁32年の中頃、山手一般病院に行って手伝っていたが、図らず卒倒してので、母校でも非常に心配し、学園の校長室へ引き取り、優遇静養に努めること年余、不幸にも、明治33810日享年41歳で、敢えなく世を去った。明治16年まで女医なく、17年頃届出での旧式女医は二、三人あったでルである。

 

さらに父親の菱川篤三のことを国会図書館デジタルコレクションで調べると、

 

菱川篤三

明治37612日に卒去、墓所:横浜市神奈川新町長延寺、行年:73歳、名古屋の出、明治の初め、横浜に遊び、育英事業に従事し、元街、石川両小学校の訓導兼会計幹事たり。

「明治大正実話稿」 村居鐵城、昭和13

 

横浜の寺子屋

青雲堂

期間:万延元年―明治6年 所在地:元町 生徒数:男 87名、女 38名、調査年:菱川篤三(文久三年)

 

菱川しま(篤三五女、明治9年生まれ)

愛知県士族牧野元春の次男、牧野商店主、牧野鉄治郎に嫁ぐ。フェリス女学校卒業

 

菱川源六

菱川安の祖父(「鐵城記寿録」から)

その横浜の先生の御親父は、大層裕福な方で、家屋なども石川辺に百戸から持っていられてが、小学校をしくじった私は、今度はこの先生の親御さん菱川源六翁の家に雇われることになり、家賃の日掛集めから、家屋に関する諸の世話掛を承った。

 

 

これらのことから、菱川やす(安)の実家は、横浜共立女学校近く、石川にあり、裕福な家庭の出であった。女子教育にも熱心で、他の娘はフェリス女学校に行かせている。父親、篤三は没年から生年は1832年(天保年間)、祖父、源六は文化、享和年間と思われる。横浜開港は安政年間で、菱川家が横浜に来たのはそれ以降であり、祖父の代に石川に百戸の貸家を持つ資金はどうしたのであろうか。父親、篤三は万延元年(1860年)には青雲堂を開校しているので、それ以前に名古屋から横浜に来たことになる。菱川姓は名古屋に多いが、士族であれば、幕末に横浜に来ることはあまりなく、名古屋で商人をしていて、発展しつつある横浜に移住したのであろう。菱川源六、北方村平民の記載もある。元町の歴史は、万延元年に横浜村の居住民90戸が隣接する本町に強制移転されたのが始まりと言われ、元町のほぼ初期の住民の一人であったのだろう。






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