2023年8月17日木曜日

弘前市が空襲を免れた理由は

 



今朝の東奥日報の明鏡欄に、「なぜ弘前市は空襲を受けなかったのか。戦前、弘前に住んだことがある米軍中枢部の将校の一声で、弘前は空襲の標的からはずされた」というような内容の投書があった。この疑問は、これまでも何度も繰り返しされ、その度の否定されてきた。弘前市には、戦前、アメリカから多くの宣教師がきて、彼らは帰国後、空襲する都市のリストから弘前を外すように尽力し、その結果、弘前には空襲されなかったという説も同じようなものである。結論としては、なぜ弘前が空襲されなかったかははっきりとはわからないが、たまたまそうなっただけである。

 

以前、このことについて少し調査したことがあるが、弘前にいた将校、宣教師が空襲阻止に動いたという記録はなく、アメリカ軍の戦前の調査でも、爆撃候補地として、地形、人口、産業など詳しく調べられたレポートがあった。このレポートでは日本の多くの都市について細かく調べられ、これを元に実際に空襲する場所を決めていったのである。

 

昭和19年以降の米軍の主な侵攻ルートは、サイパンにB29の基地を作り、そこを起点に日本を空襲するというものであった。それでも護衛の戦闘機の航続距離あるいは攻撃された飛行機の避難場所を考えるとサイパンと日本の途中、硫黄島に基地を作る必要ができ、昭和203月に陥落後、ようやくサイパンー硫黄島―日本の爆撃コースが確定でき、本格的な日本本土の爆撃が活発化した。それでも航続距離の関係からB29の行動圏は、爆弾を積んで、3334km(basic)2650km(max bombs)の行動半径である。サイパンを中心にすれば、福島くらいがギリギリで、青森はかなり遠い。後継機であるB-36であれば、戦闘行動半径は6220kmなので余裕である。サイパンと東京間の距離は2350kmなのに対して、サイパンと青森間が2900kmで、上空の集合、待機あるいは余裕時間を含めると、B-29ではかなり厳しい距離となる。ちなみに随伴する戦闘機P-51の例で言えば、航続距離は3000km、硫黄島から発進しても青森まで片道1780kmで随伴は無理である。どうしても随伴するとなると空母を日本本土にかなり近づけて、そこから随伴する戦闘機を発進することになる。

 

実際、昭和20727日の青森空襲では、サイパンからのB-29の発進は航続距離の点で難しかったので、狭い硫黄島(距離1783km)から発進し、おそらく随伴する戦闘機もなかった状態であったのだろう。米軍としては戦略爆撃という点では航続距離の点でギリギリの都市であった。さらに遠方の北海道にはついにB-29などの戦略爆撃はなく、空母艦載機のみの爆撃があっただけである。青森市の爆撃については、その目的ははっきりしないが、おそらく北海道と本州の連絡を断つという以外にも単純に無差別爆撃による戦意をなくす意味が強く、815日に終戦にならなければ、弘前や函館なども空襲されたであろう。

 

アメリカではロバート委員会(「戦争地域における美術的歴史的遺跡の保護、救済に関するアメリカ委員会」)が発足し、そこでは日本の文化財リストを「ウォーナー・リスト」として1944年の7月にまとめられ、京都や奈良などの寺、神社や城が記載されている。このリストにっは弘前城も入っていた。ただ実際の空爆については、こうしたリストは一切、無視され、終戦前日も京都への原爆投下の訓練を行なっていたという。名古屋城天守閣、沖縄首里城、岡山城、青葉城などリストに載っていた文化財も平気に爆撃され、結局は「米軍の空襲目標の180都市を人口順に選んで、その順に爆撃していたが、奈良、鎌倉については本格攻撃に順番が来る前に終戦となっただけだった」(「ボストン美術館 富田幸次郎の五十年」橘しずゑ著を参照)。

 

1940年(昭和15年)の国勢調査によれば、青森県の都市別人口は、青森市が14800人、ついで弘前市が109000人、八戸市が99800人となる、人口順に爆撃されるなら、青森市の次は弘前市となったはずで、戦争が早く終わったので、空爆されなかっただけである。

 

まあこじつけていうと、このロバート委員会のメンバーのひとりに弘前に関係する人物がいる。白戸一郎1911-1997)である。父親の白戸八郎は、武術と馬術で弘前藩に仕えた白戸久蔵の次男で、東奥義塾を卒業後、青山学院、早稲田大学で学び、その後、アメリカでメソジスト系の神学校で学び、牧師となった。主としてコロラド、デンバーで活動し、教会を建てた。大正15年に体を壊して帰国し、札幌、東京などの教会活動をした。八郎の長男の一郎はデンバーで生まれて、アメリカの大学で学び、コロンビア大学教授となり、40年間に渡り、アメリカの日本語教育に大きな功績を上げた。有名なロバート・キーン教授も彼の生徒である。また同じくロバート委員会のメンバー(日本人は全部で三人)の一人に、白戸一郎の妻、まさ(青山士の長女)がいる。ウォーナ・リストは読んでいないが、白戸一郎にとっては自分のルーツ、弘前には、少し思い入れがあったかもしれない。


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