2014年5月15日木曜日

今東光の描く弘前ねぷた


 最近は本業の歯科以外の頼まれ事が多い。東奥義塾経済同友会の講演が来月、弘前大学のシニアカレッジの講演が9月、また今東光の弘前関係のちょっとした論文も書かなくてはいけない。義塾については集中的に勉強して何とか構想はまとまったし、弘前大学の方は古地図の解説を考えているので、これも問題ない。問題は今東光関係の論文である。今東光の父、武平、母、綾はいずれも弘前出身で、今東光の知人も弘前出身者が多い。そのあたりをまとめようと考えているが、ふと考えると今東光の著書はひとつも読んでいない。早速、本屋で、探してみると、現在唯一、書店で取り扱っているのは「毒舌日本史」(文春文庫)のみである。これが面白い。失礼ながら今東光和尚がこれほど博学とは思わなかった。古墳時代から明治まで、それこそ日本史全体について、すごい知識である。それもインタビューであるので、ここでの対談はすべて今東光の頭にある知識で、その記憶量とその背景にある膨大な読書量には圧倒される。中国、ソビエトに対する時事問題についての考えは、今からみると実に鋭く、是非ともお読みいただきたい。

 これ以外の本は、すべて古書となるので、近くの古本屋で求めたのが「十二階崩壊」(中央公論社)である。内容は恩師、谷崎潤一郎の回想であるが、ここでも驚くべき記憶力を発揮して、谷崎の普段の生活を詳しく描写している。この人は僕らの世代の人から見ると助平坊主というイメージであるが、実際に若き日の今東光の遊びぶりもすごい。この本の中で弘前ねぷたのことが書かれているので、少し紹介したい。リアリティがある(無断で引用して中央公論社の方にはお詫びします)。

 「今でこそ東北三大祭などと称せられる練武多は、青森が主体となって盛大華麗をきわめるが、城下町弘前では青森の練武多を鼻でせせら笑って馬鹿にしているのだ。青森という港町は旧藩時代はしがない松前との貿易を扱った漁村で、明治になってから次第に港町の体裁を整えてきたが、畢竟、町人の町なのだ。従って毎年の練武多もいたずらに華やかで、その代わり如何にも港町の祭らしい気分を横溢した光景が見られた。「あれだきゃ女子供の遊びぜ」と弘前の人々は軽蔑していたのだった。」と青森のねぶたには厳しい。そして弘前ねぷたを「宵から八九時頃までは賑やかで女子供等の多い祭も、十二時前後、森閑とひそまり返った真暗な道路に、まるで闇を掻き分けるように一団の若い者がひたひたと草履の跫音(きょうおん)を立てて通り過ぎるのだ。それはたった一つの小型の燈籠をささげ、太鼓もわずか一つ、笛も一本くらいで、その喧嘩練武多というのは女の不気味な生首など血みどろに描いた扇燈籠のことだ。この喧嘩練武多を取り巻いている若い衆は、竹刀や木刀の他に仕込み杖などという物騒な得物を持ち、荒い息を吐きながら、喧嘩相手求めて暗い細い道までも厭わずに歩き廻るのだ」、ここで上町と下町との因縁を説明し、「中学までは夏ごとに弘前に帰郷した僕は、学校を退校させられてからは、時季を択ばず弘前に戻って従兄と悪遊びに耽ったが、練武多の絵を頼まれ淫らな裸婦を描いたら皆な、「これだばまいねじゃ。この裸コの姐(あね)さ担いでだば喧嘩できね。喧嘩より抱く方が好(え)かべし」という訳で、女の血のしたたるような生首を描いてくれと注文だ。仕方がないから夏狂言のお岩の首を描いてやると、これは大喜びで迎えられた。実は僕も仕込み杖の刀身を磨きあげてひっそり携えて行ったのだ」この人は、かなり津軽弁ができる。従兄は伊東五一郎のことか。「昔の武士は合戦の場に臨むと武者震いが出たと聞いて、その時は大した感情も懐かなかったが、実際の真夜中の大喧嘩に巻き込まれると、僕は身体震えて立っていられないくらいの経験をした。全く鼻を摘まれてもわからないくらい真暗な闇の中で、砂塵を巻き立てて一団の黒い影法師がぶつかり合うと、どちらも両側の小店に取りついて屋根に上り、屋上の板茸の屋根の押えをしている人間の頭ほどの石をぶうんぶうんと投げて来る。誰にむかって投げるのではなく、盲滅法に投げてくるので、味方の石で頭を削れられるかもしれないのだ。そのために、林檎を容れる竹の目無し籠をかぶって頭部の防ぎをしているので、その格好はまことに異様な風態なのだ。そして闇の中できらりきらり白刃が閃くと、わっと人々の群れが飛び散る。するとその白刃を目懸けて石がぱらぱらと集中するのだ。時折の魂消るほどの叫び声が聞え、壮絶な格闘が随所で起こるのだ。」実になまなましい描写で、喧嘩ねぷたの状況を的確に現している。平尾魯仙の弘前ネプタの文久年間の絵だが、今東光の描く喧嘩ネプタに近い。こういった喧嘩ネプタが最後に行われたのが昭和8年である。今東光の参加した喧嘩ネプタは大正のころで、日本刀で本当の切り合いがあった明治期のねぷたよりはこれでもややおとなしくなっている。

 写真上は平尾魯仙の絵、下は今東光が弘前帰省の折に泊まった、伊東家の二階部屋である。

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