「ポーツマスの旗」(吉村昭著、新潮文庫)を読む。ポーツマス会議に随行した弘前出身の佐藤愛麿のことを知りたいと思い、購入した。古い本ながら吉村さんの綿密な調査には舌が巻かれた。日露戦争時の日本とロシアの情報戦争というべき裏面の活動にも多くのページをさいており、日露戦争の裏のインテリジェント史としてもおもしろい。日露戦争当時、オランダ大使館から日本の暗号表が盗まれ、日本の外交電信のほとんどがすぐに解読されていて、情報は筒抜けであった。日露国交断絶の知らせを、駐露公使栗野慎一郎よりロシア皇帝ニコライ二世の方が先に知っていたという笑えない話もある。一方、日本でも、明治19年に長崎に入港した清国北洋艦隊の乗務員が騒擾事件をおこしたが、この機に乗じて清国の暗号表を入手し、電信課長を務めていた佐藤がそれを基礎に暗号研究を行い、日清戦争の折にはほぼ清国の暗号は解読していた。下関条約の際には、清国全権李鴻章の真意をすべて読み取り、交渉を成功裏に収めた。
そのため、ポーツマス会議では会議用の特別な暗号を持参し、さらに暗号のエキスパートの佐藤愛麿を随員に選んだ。日本全権小村寿太郎はハーバード大学を、佐藤はデポー大学を卒業しており、いずれも英語が堪能な上にアメリカの国民感情にも精通していたし、この随員の中にはデニソンというアメリカ人がいたことはその後の交渉に大いに役立った。その他の随員の選択もベストで、状況は違うが、太平洋戦争前の日米交渉とは意気込みが違う。このポーツマス会議における日本の外交交渉は、世界各地に散らばった公使館、日本人から情報をすばやく集め、その情報に基づき、外交交渉を進めるという極めてオーソドックな手法を用いていた。外交交渉のクライマックスは、領土問題と賠償金交渉で、賠償金放棄がかぎとなっていた。明治の政治家、軍人の偉かったのは、冷静に現地軍の情勢を分析し、賠償金放棄しても講和を結ぶべきと全員一致で放棄を決議した。当然、こういった決断に国民は強い抵抗があることはわかっていただけに、苦渋の選択であった。こうして講和が成立した。この緊迫した会議の経過は読みごたえがある。
「昭和史を陰で動かした男 忘れられたアジテーター・五百木飄亭」(松本健一著、新潮社)では、この講和に強い反対を唱え、アジテーターとして日比谷焼打ち事件を主導した五百木の生涯を描いている。正岡子規の初期の俳句の弟子として実直で、詩才に恵まれた人物が次第に国粋主義者に変貌していく過程は、そのまま日本国民の姿であり、それを誘導したのが、新聞であり、知識人であった。勝った、勝った日本は強いという威勢のいいナショナリズムは容易に国民に染み付いていくもので、そのまま日本をアジアの盟主とする帝国主義に移行していった。その移行を体現していたのが、五百木の生き方で、ある意味、彼の生き様は典型的な日本人のそれであったのだろう。国民の不満を聞き、それを増幅してアジる、こうしたことに朝日、読売など大手新聞社も同調し、あの太平洋戦争に突入していく。ポーツマス会議での政府の冷静な対応と、それに対する国民感情の乖離、そしてそれを増幅する人物、マスコミの姿をこれらの二つの本は表裏として伝えてくれる。個人的には、犬養毅、頭山満、五百木らのアジア主義が次第に日本を盟主とした帝国主義、大アジア主義となっていく変貌と中野正剛、山田純三郎、宮崎滔天らが支持する孫文のアジア主義との違いが、松本氏の本でよく理解できた。
翻って、今の日本の政府にポーツマス会議に出席したような専門家、インテリジェンスがどれだけいるか、実に心もとない。少なくとも、アメリカ、ロシア、中国については、現地の大学を卒業した人材が必要だが、昨今の若者は海外留学しないため、ルーズベルト大統領との仲介をした金子堅太郎のような人物がいるであろうか。また最重要な会議にデニソンのようなお雇い外国人を連れて行き、重要な案件を任せるような度量があるであろうか。明治人の人を見る目は確かである。
写真はWikipeiaの写真だが、座っている右の人物が小村寿太郎、左が高平小五郎、後ろ右から佐藤愛麿、デニソン、竹下勇海軍中佐であろう。
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