2023年7月7日金曜日

昭和30年代の尼崎 1

 

             道は舗装されず、オート三輪、荷車がある


前回に続き、昭和30年代の尼崎について、書いてみよう。と言っても私の住んでいた尼崎市東難波町周辺のことであるが。

 

私の家は歯科医院をしていて、わずか18坪の家、それも借家であった。以前のブログでも書いたが、劇作家の中島らもさんのお父さんがJR立花駅近くで歯科医院を経営しており、その分院がここであり、父がここを借りた。一階は待合室と診療所(歯科用チェアー一台)で、その奥に小さな技工室と台所があった。2階は和室が二間あり、そこで両親と祖母、姉、兄、そして私の六人が住んでいた。朝の9時から夜の9時まで、休みなしで、働き、その後は技工をして、尼崎の繁華街に飲みに行く。毎日、そうした生活を父親はしていた。これだけ働いても稼ぎをそれほど多くなく、ご飯、味噌汁、お皿にキャベツとコロッケ、こんな夕飯であり、朝は前日のご飯と味噌汁、牛乳となり、昼はご飯とうどんという内容であった。いかに少量のおかずで大量の米を食べられるか子供心に工夫をしていた。ただ夏になると冷やご飯もやや腐りかけているのか、変な匂いがして、そうした場合は、お茶漬けで流し込んだ。

 

左隣はクリーニング屋、その隣は病院、右隣は普通の民家であったが、交差点の向こうは牛乳屋で、毎朝、牛乳を運搬用の木箱に入れるガチャガチャした音がした。民家の裏は酒屋で、最近はリバイバルしている角打ちをしていて、夕方になると労働者でいっぱいであった。家の前はお菓子屋で、餅、ケーキ、シュークリームなどを売っていた。同級生だったのでよく遊びに行ったが、店舗の奥で菓子を作っており、お菓子の製作工程が面白かった。今ではほとんど人が通らないが、当時はこの付近に多くの工場があり、その職人で賑やかであった。今はラブホテルになっているところは、ほとんど工場で、鉄を削る、叩く音など、今では考えられないくらいうるさかったが、誰も気にもしなかった。

 

この道沿いには、菓子屋、味噌醤油屋、一杯飲み屋、薬屋、病院、歯科医院、散髪屋、タバコ屋、クリーニング屋、牛乳配達、新聞配達、菓子屋兼本屋(マンガ)、工務店などがあった。尼崎駅前に行く道をまっすぐ進むと、ホープという散髪屋があるが、ここを右に折れる道は、子供の頃から絶対に近づくなと言われた道であった。それでも子供は、そう言われると行きたくなるもので、また友人もここに住んでいたので、よく遊びに行った。後からわかったことだが、ここは昭和30年代まで青線地帯と呼ばれるところで、素人の女の人が売春をしていたところで、ひどく汚い酒屋や、アパートがぎっしり並んでいた。幅2mくらいの路地が至る所にあり、さながら迷路のようにくねっていた。タバコ屋の前で殺人事件もあった。そうしたところでは、夏になると上半身に入れ墨を入れた人は竹の縁台で涼んでいたり、女の人はシーミーズでぶらぶらしていた。友人の家は6畳くらいに両親と子供二人で住んでおり、外の路地に七輪を置いて煮炊していた。

 

主婦は、たまには三和商店街に行くものの、普段は近所の難波センター市場に買い物に行っていた。この市場は2mくらいの通路が2本あり、その両側に多くの店が入っていた。真ん中で左右の通路が連結する。一番、思い出に残るのが玉子屋で、卵五個と注文すると、ワラに入った卵をいちいち電球にかざして中を見てから新聞紙に上手に包んでくれた。子供心にヒナが入っている卵があるのか、興味深かった。お菓子屋には、ガラスの平たい入れ物に煎餅、あられ、ゼリー、ガラス瓶にはキャンディーなどが入っており、注文をすると袋に入れて量り売りをしていた。肉屋もそうだが当時の店は、多くが量り売りで、さらにすごいのは電卓もなかったので、暗算で計算していた。魚屋、肉屋、乾物屋などほとんど商品はこの市場で買えたし、また近くには八百屋や豆腐屋もあり、魚は自転車に乗せて売りに来たので、今のようにスーパーはなかったが、それほど困らなかった。逆に店主と会話して物を買えるため、安心感があった。

 

学校から帰ると子供は10円をもらい、何人かの友人と行きつけの駄菓子屋に向かい、一回5円のクジや駄菓子を買って、楽しみ、その後、近所の路地や空き地、あるいは公園で遊んだ。幼稚園から小学校一年生くらいは、空き地でママゴト、サザエさん、東京ケンパ、ダルマさんが転んだなどの遊びを、もう少し大きくなると、コマ回し、ビー玉、ベッタン、2B弾、銀玉鉄砲などで遊んだ。さらには三角ベース、これは今の軟式テニスのボールを使い、バッドの代わりに手の平でボールをうつ遊びであった。また名前は忘れたが、このボールを屋根の上に名前を言って投げ、落ちてきたボールをキャッチすると、その人がまた屋根にボールを投げるが、ボールをキャッチできないと、みんな一斉に逃げ、鬼となった子供はボールを逃げた子供に当てないといけない。

 

小学校では、女の子にぶつかるようにクラスメートを押して、キスしたキスしたと騒ぐことは流行ったし、便所に行って誰かが大をしているのを知ると、「べべんじょ かんじょ 鍵しめた」と中指と人差し指をクロスすれば、汚いものから逃げられるという遊びもあった。このおまじないをする前に他の人にタッチすれば、汚いものがうつるのである。今考えるといじめのようなことをしていたためが、当時の通信簿を見ると小学三年生の時に、素行の欄にCをつけられたこともあった。

 

それでも、昭和41年、小学4年生頃からは素行も収まり、当時のクラス委員、副委員長、委員長は選挙で選ばれるが、成績が悪くても人気者が選らばれることがあり、初めて委員に選ばれた。少しはリーダーとしての意識に芽生えたのか、それ以降は成績も良くなく、卒業までずっと副委員長か委員長をしていた。と同時に、小学5年生になると進学塾にも行きだし、子供の頃に遊んだものとは訣別したが、こうした子供頃に遊びには、その後の人生の縮図があった。次回はそうしたエピソードを

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