池田先生は、終戦前後には、学校を視察して、問題を挙げる県視学官に押されるも、すぐに辞め、戦後は再び、田代国民学校に戻り、その後、昭和37年に退職するまで、岩屋小、野牛小、川内第一小などの僻地勤務を続けた。さらに退職後も、奥さんが石倉分校の主任をしていたので、そこに自宅を建て、解放して塾をしていた。
原子昭三先生が、ラドン温泉に入院していた池田先生にしたインタビューが残っている。「先生が戦時中やられた教育をどうのうに思っていますか」、「お互いに悩んできたと思いますが、戦いに勝っても、負けても、師の道に変わりはないと確信しておりましたから、終戦直後県内の郡視学が集まったとき、みんなをこう励ました。“いくさに負けたんだから、教師はこんどこそ教壇で死ぬ覚悟でやらなくちゃいけないよ。前よりも、もっと強い覚悟でやろうじゃないか”」、「先生はいまの教育界に対して一番訴えたいのはどんなことですか」、「それは私の平常からのものの考え方なんだが、“生活(くらし)は低く、理想は高く”ということです」
池田先生の自由な時間は、日曜日の午後だけで、その時間だけは好きな吉田松陰の研究をし、カントの哲学書を読み、ベートーベンを聞いていたという。それ以外の時間はすべて生徒に捧げた。また金への執着は全くなく、
「わらぢ校長」という本は、昭和17年に2円という定価で、3000部発行された。結構多い部数であり、戦時下の理想的な教師像をして、全国的に知らされた。当時においても、こうした教師は極めて稀な存在であり、おそらく驚きの目で見られたであろうし、模範にもなったのであろう。それでも池田先生の日常生活は変わらず、退職するまで、管理職とはならず、常に教師として生徒に接してきた。若いときの一時の熱病で、こうした理想的な教師像に憧れることもあろうが、結婚し、子供もできるようになると、次第に楽な生活、安易な流れに従うようになり、理想は薄れていくものだ。ところが、池田先生においては、その精神規範は全くぶれずに、一生を全うした。これがなかなかできないことである。現在でも、テレビに教育評論家、あるいは本が売れると舞い上がり、講演会を開く教師がいるが、こうした生き方とは無縁である。
昭和17年当時でも、池田先生の生き方は稀有のものであり、今の時代にこうした生き方を求めることはできない。それでも、京都帝国大学を卒業したほとんどの同窓は、後に大学の教授など高い地位についたことを思うと、名を求まない精神的なバックボーンは何かと考えざるを得ない。以前のブログでも紹介した拓殖大学の佐藤慎一郎先生にも通じるもので、津軽独特の何かがあるようにも思える。結局は、池田先生は子どもに教えるのが何より好きで、僻地の少人数の教育こそ、ある意味、自分の好きな授業ができ、それが楽しかったのだろう。好きなことをするためには、地位も名誉もいらないということか。
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