以前のブログ(明治期の女医 外国医学校組 2015.5.27)で、医術開業試験を受けずに外国医学校卒業で医師になった女性について書いた。明治期、女性が医者になるには、済生学舎のような私立の予備校に通い、医術開業試験を受けるか、外国の医学校を卒業すれば、自動的に医師となることができた。男性の場合は、医学校を卒業すれば、医師になれただけに、女性で医師になるのは難しかった。特に外国の医学校、主としてアメリカの医学校を卒業するには、費用がかかるだけでなく、語学が堪能でなければ厳しい。日本の教育機関で語学を十分に修得してから、留学することになる。
そうした外国医学校組の女医の一人に相澤操(みさお、ミサヲ)がいる。明治18年5月23日、岩手県胆沢郡金ヶ崎町の牧師の娘として生まれ、尚絅女学校(仙台、一期生?)、明治38年に同志社女学校普通部を、翌年39年に高等学部を卒業した。明治37年に京都を旅行中のアメリカの富豪の息子が腸チフスに感染した。その時の日本で受けた医療、看護に感激して、看護学志望の日本人をアメリカに派遣して、勉強してもらうことになった。それにより園部まきが派遣され、優秀な成績であったことから、今度は医学志望の女性二人をアメリカに留学させることになり、そこで選ばれたのが、相澤操と中川モトであった。二人は明治39年8月の渡米し、9月にペンシルベニア女子医大に入学した。アメリカでも女子医大の設立は1850年ころから始まったばかりで、ペンシルベニア女子医大はその嚆矢でもあった。明治43年に卒業し、同年6 月には帰国して、医籍登録して同志社博愛病院に勤務した。
相澤操は明治44年に東京千駄ヶ谷で開業したが、同年結婚し、姓が曽根に変わった。夫は牧師であり、その勤務の関係で、大正3年には青森県八戸、その後、福岡県に移り住み、大正9年には日赤福岡支部巡回診療班医師として僻地医療に従事した。昭和16年に夫が脳出血で倒れたので、久留米市で開業し、昭和44年5月6日に84歳で他界した。熱心なキリスト教徒で、愛と奉仕の精神で医療にあたり、住民からは慕われた(福嶋正和、「岩手県金ヶ崎町(城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区)より輩出せる明治女医2名」、第110回日本医史学総会)。
「明治女医の基礎資料」(三﨑裕子、日本医史学雑誌、 2008)では、昭和5年は久留米市開業、昭和12年は東京府とあるが、同志社女学校学友会同窓会名簿では昭和3年、日本医籍録(昭和9年)には住所:久留米市荘島町となっているが、特に病院名はなく、夫が久留米で勤務しながら、巡回診療班で従事していたのであろう。
昭和7年の久留米市誌では、久留米聖公会(明治35年発足)が荘島町(現:庄島町)53-2、久留米伝道教会(大正9年)が荘島町114にあった。相澤操が卒業した尚絅女学校は北部バブテスト派、同志社は会衆派であり、夫は牧師とあるが、これらの教会にいたのかは、はっきりしていない。
久留米大学医学部名誉教授、重森先生の調査によれば、昭和8年に設立された私立の夜間学校、皇道館の三代目校長に曽根三次という人物がいて、アメリカ帰りのクリスチャンで皇道精神旺盛で熱心に生徒に教育したようである。この人物が操の夫なのだろうか。もしそうなら、クリスチャンでありながら、皇道派であるという、かなり複雑な人物だったのであろう。
上の写真は、ペンシルベニア女子医大在学当時の相澤操、下の写真は中川もとである。
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