津軽には強烈な個性の人物がいる。ここで紹介する青森県下北地区の僻地教育に一生を捧げた池田健三(明治35-昭和61年、1902-1986)も、その一人で、「自分は田代(赴任地、下北郡)の教育に命を賭している」という“狂”とも呼べる生涯は、常人では考えられない。
その生涯については、「わらじ校長」(松田武四郎、昭和17年、牧書房、昭和52年再出版)、「津軽奇人伝」(原子昭三、青森県教育振興会、昭和59年)、「青森20世紀の群像」(東奥日報社、平成12年)に記載されているので、その一部と追加情報を何回かに分けて紹介する。
明治35年、青森市の大きな雑貨屋で生まれたが、父の死とともに、家は傾いた。旧制青森中学校を卒業後は、上級学校に進みたかったが、学費のかからない青森師範学校二部に進んだ(大正7年、1918)。この二部というのは中学校を卒業した生徒を集めたもので、ちょうど第一次世界大戦が終了して、経済界、上級学校(高校)に進むものが多く、池田のクラスはわずか8名であった。青森中学校在学時は平凡な生徒であったが、家が貧しく、早熟な内面的な葛藤を宗教に求めたのか、この頃からキリスト教会に通うようになり、信徒となった。
「実地明細絵図から読み解く明治の青森」(安田道、青森県立郷土館研究紀要、2009)では、明治25年発行の「青森実地明細絵図」に載る主立った商家についての説明があり、米町に和洋小間物紙書籍洋酒卸商、池田吉助の名がある。山マークに千の屋号で、殺生釘付鬼瓦を有する大きな商家である。おそらく、ここが池田健三の実家であろう。資産家であり、明治30年代の本には商家名は記載されているが、「青森商業会議所年報、明治43年中」の納税者リストに、この名は記載されておらず、その原因を明治43年の青森大火によるものと思われる。この大火では市内安方町から出火し、池田吉助の店のあった米町もすべての家が焼け落ちた。現在の青森市橋本一丁目の渡辺病院付近である。全財産をすべて灰燼にきしたため、池田吉助はその後、立ち直れず、失意のうちに亡くなったのかもしれない。
資産家の家に不自由なく育った池田健三は、突如の貧困にめげず、何とか中学校、そして青森師範学校第二部を大正9年に卒業し、19歳で三戸郡上名久井小学校に赴任した。しかし上級学校への進学やみがたく、ちょうど弘前に高等学校ができるのを知ると、翌年、旧制弘前高校を受験した。そして合格し、弘前高校の一期生となった。貧しさは続き、弘前市の親類に寄寓して学校に通ったが、革靴が買えず、藁靴で通学し、服装も質素なもので、その一風変わった風采は同級生でも有名であった。夏期休暇中も北海道で労働に出かけ、学費を稼いだ。
「京都帝国大学一覧 大正15年至昭和2年」には大正14年、文学部哲学科入学者の中に池田健三の名がある。他に青森県出身者には大屋静一、斎藤勝次郎がいる。当時の京都帝国大学哲学科には西田幾多郎がいて、彼を憧れる学生が多く、志望者も多かった。さらに「京都帝国大学一覧 昭和4年」には昭和3年3月卒業者として、宗教学専攻として、片山正直(愛媛、後、関西学院大学文学部長)、竹村菊太郎(奈良、天理中学校校長)、篠田一人(山口、同志社大学人文科学研究所教授)とともに池田の名がある。当時の京都大学文学部宗教学教授は波多野精一教授で、西田幾多郎と並ぶ京都学派の立役者である。池田が在学していた当時の京都大学哲学科は京都学派の最盛期で、哲学科教授に西田幾多太郎、その後任の田辺元教授、倫理学には和辻哲郎助教授など蒼々たるメンバーがいた。日本哲学の黄金期であり、京都大学はそのメッカであった。
大学に入っても、物質的には不遇で、他の学生のように学問一途の生活は許されず、三井寺の無住の釈迦堂に籠もり、味噌と粥ばかりで過ごし、時々は郷里に帰り、代用教員などをして学費を稼いだ。釈迦堂から学校のある吉田山まで毎日2時間かけて歩いた。1年生の時に卒業試験を受けて全科目及第するという好成績を得ながら、卒業まで5、6年かかったというが、上記に記すように4年で卒業している。卒業後は、倫理学の大学院に進んだとあるが、大学一覧にはその名はなく、西田天香氏の一燈園での活動に熱中したようで、畑の小屋に合宿して、浮浪者や刑余者を養うために、京都市中からゴミを集め、そこから紙くず、ぼろ布などを選んで金に替え、活動資金とした。ここでの教え、下座行が彼の人生を決めた。
その後、郷里に帰り、望まれて母校の青森中学で教鞭をとることになったが、「中学は月給が多くて、仕事が楽すぎる」という理由で、半年で辞めてしまい、突然、缶詰工場の日雇夫や土工をした。「物欲を絶って精神に生きる」と、こうした生活を3年間続けた。昭和10年ころの話で、汚れた労働服を来て、毎朝裏長屋を出て行く後ろ姿に「それ変わり者が行く。変人が通る」と近所の住民から囃された。それでも本はよく読み、青森図書館の蔵書は、この時期、ほとんど読んでしまい、また休みで時間があると友人宅に出かけ、掃除や雪片付けをした。工場で魚介類が余ると日雇夫に与えるのだが、「働いた分に対する報酬は受けているのだから、それ以外は不労所得である」と絶対にもらわなかったという。
池田は後年、視察で旅館に泊まる際にも、必ず旅館の便所掃除をした。池田は、裕福な家庭から貧困の極みを経験し、その後、高校、大学で宗教学を極めようとしたが、その先にあったのは下座行であり、欲を捨て、ただ生徒の教育に命を賭ける、こういった強い信条が早い時期に形成された。貧乏に苦しめられ末、最高学府で学んだ者、常人であれば、出世して名誉、金銭を求めようとするが、池田はその長い精神葛藤の末、欲を絶ち、すべてを捨てて、誰も行かない僻地の子供たちの教育に、一兵卒として生涯をかけることになる。
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