2012年11月17日土曜日

郡場寛の祖父、白戸浪江


 現在、「新明治二年弘前絵図」の執筆を進めている。前回の本に比べて文章は約2倍、図も2倍程度となり、評判の悪かった絵図のデジタルデーター(CD)を止め、ポスターサイズの印刷した絵図を付録として載せることにした。原稿はほぼ完成し、印刷所の選定を開始している。

 前の本、「明治二年弘前絵図」は、150部ほどをインターネット、これは私個人宛に注文が来たものと、弘前市の紀伊国屋書店に直接卸して、売った。20部ずつ無くなったら、連絡してもらい、その都度、歩いて紀伊国屋まで行って、納入した。半年ほどでなんとか売り切れたが、弘前以外に住む方々から、どうしてもっと多くの本屋で売らないのか、宣伝もないので、本の存在を知った時点で、売り切れていたという声があった。そこで次回は、どこか出版社に業務委託して売る予定である。部数は少し、増やして、300部ほどを売る予定である。

 それに関して、もう一度、内容を吟味し、新たに見つかったものも付け加えた。例えば、弘前大学学長で、シンガポール植物園を救った郡場寛のことを調べようと考えた。郡場寛の父、白戸直世については函館戦争で負傷し、その後遺症を治すために、八甲田山、八甲田温泉を開拓したことは知られている。弘前藩記事を丹念に調べると、白戸直世、御留守居組、白戸東太郎倅の記述がある。直世の父は本太郎ということになる。明治二年弘前絵図のデーターベースを調べても、そういった名前はない。さらに調べると、手塚群平隊、二等銃隊、本太郎弟、白戸直世の記述がある。兄の名前は白戸本太郎となる。ただこれもデーターベースには載っていない。可能性を色々と探すと、どうも徳田町の白戸浪江という人物が、あやしい。

 半年ほど探していたが、先日、弘前図書館でようやく見つかった。「津軽藩明治一統誌 人名録」(内藤官八郎著)に白戸浪江子、白戸直世との記載があった。白戸浪江とは白戸東太郎のことで、その二男?が白戸直世ということになる。つまり実家は徳田町となる。これは新しい本に追加できる。

 もう一人、佐々木五三郎の父親で、幕末、紙漉町で製紙業を行っていた佐々木新蔵という人物がいる。蘭学者佐々木玄俊の弟となる。安政6年(1859)、弘前藩は製紙業に藩として製造に乗り出す。紙漉座御用掛として用人楠美荘司、勘定奉行、浅利七郎、紙漉座取扱に町人佐々木新蔵を任じる。松木明知著「津軽文化誌 V」では、佐々木新蔵、旧名今井屋俊蔵とある。町医佐々木秀庵の長男は元俊、二男覚玄は僧侶に、三男健三郎は工藤家に養子、そして四男が新蔵となる。当初、四男も町人今井家に養子に行き、そこでは今井屋俊蔵と称していたのであろう。

 そこで佐々木という姓をデータベースで調べると、若党町北側に佐々木俊蔵という名前がある。これが佐々木新蔵かどうかはわからない。万延元年に佐々木新蔵は二人扶持の侍になったが、明治二年に中流藩士の住む若党町に住むことができたかは疑問である。ただ幕末期、二男、三男でも優秀な人材は分家していたので、可能性はゼロでもない。若党町でも開いている家があれば、住まわしたのである。佐々木新蔵の家が若党町にあって、仕事場が紙漉町の紙漉座であって別に問題はない。新しい本に入れるか、微妙なところである。

昔の人は、通名、幼名、字、諱と本当に色々な名前がある上に、維新後に名前を変えるケースも多く、困っている。


3 件のコメント:

A.sirato さんのコメント...

以前絵図でお世話になりました白戸です。白戸直世、浪江参考になります。函館戦争には白戸秀平の子の友衛も新撰組砲兵隊として参戦していましたが、降伏と同時に弘前送還を恥じて切腹したようです。

広瀬寿秀 さんのコメント...

弘前藩から新撰組に参加した者として、家老の息子、毛内有之助、千田平衛、菊池央らがいます。毛内は暗殺され、他の二人の会津戦争、函館戦争で戦死しています。白戸友衛については知りませんでした。白戸秀平の字など他の名前知りませんか。絵図で可能性があるのは、白戸幸作、白戸得弥、白戸林之助です。本当に名前が多くて困っています。

A.shirato さんのコメント...

由緒書にも白戸姓はかなりあります。白戸友衛についての資料はメールでお送りします。
しかしこのブログの人による操作証明が困難を極めます。