今日は、弘前中央公民館主催の平成24年度、第3回 現代セミナーひろさき —耳で聴く新・弘前人物志—、「兼松石居」で講演を行った。2ヶ月ほど前に依頼を受け、例によって簡単に引き受けたものの、こちらは歯科医が本職で、歴史はあくまで趣味。色々と資料を漁ったが、結局は昭和6年に発刊された森林助著「兼松石居伝」の本以外には、まともなものはなく、話もこれに準拠した。ただこれではあまりに面白くないため、得意の明治二年明治絵図の内容を挟んで、話をすることにした。
会場には熱心な聴講者、20人程度が集まり、やや緊張したが、無事終了してほっとしている。ただ個人的にはいささか、肩に力が入り過ぎ、内容が難しくなった。反省している。もっと焦点をしぼって話すべきで、講演に用意した60枚程度のスライドの半分以上は飛ばして説明することになった。1時間の講演時間では少なすぎた。どういった聴衆なのかをもう少し検討して、講演内容を検討すべきであった。
以下、講演のレジメを貼っておく。
兼松石居
—津軽の近代化の礎を築いた教育者—
広瀬寿秀
兼松石居は文化7年5月3日に生まれ、明治10年12年12日に亡くなった。西暦でいうと1810年生まれ、1877年に亡くなったことになる。同時代の人物として、藤田東湖(1806年)、佐久間象山(1811年)、緒方洪庵(1810年)、横井小楠(1809年)が挙げられるが、明治維新のハイライトを浴びた人物をいうより、プレ幕末、プレ明治の人物を捉えた方がよい。福沢諭吉が1835年、橋本左内が1834年、吉田松陰が1830年、勝海舟が1823年、西郷隆盛が1828年生まれと考えると、それより一昔前の人物である。兼松石居が昌平坂学問所に入る時の江戸将軍は11代徳川家斉で(1787-1837)、つまり幕末期の15代将軍徳川慶喜(1837-1913)の4代前となり、幕末というより江戸後期と言ってよかろう。さらに幕末期、兼松石居は世子問題で蟄居されていたため、幕末から明治維新の間は完全に沈黙していた。こういった背景を考えて、兼松石居の業績を考える必要がある。
兼松石居は、若い時は当時の正式な学問、朱子学を学び、昌平坂学問所でも舍長に選ばれるが、尊王思想、陽明学、蘭学などについても興味を示し、柔軟な思考の持ち主であった。さらに藩主とも親しく、そういった考えを積極的に弘前藩の教育方針にする立場であったし、実際に多くの有能な門人を生んだ。
幕末期、弘前藩には工藤他山(1818-1889)、櫛引錯斎(1820-1879)などの塾があり、次第に稽古館、東奥義塾に収斂していくが、彼らの先輩にあたる人物が石居であり、本多庸一(1849-1912)、珍田捨巳(1857-1929)、菊池九郎(1847-1926)など明治の偉人を生み出した。彼らにとっては、父親の世代にあたり、実際に本多庸一の父、本多東作や珍田捨巳の父珍田有孚とは同僚であり、親しい。学識、人徳とも高く、さらに津軽順承(ゆきつぐ)の世子問題でみせた気概は、同時代のほとんどの弘前藩士からは、一目置かれる存在で、ある意味、弘前藩の教育、知的な分野でのリーダーであった。あの頑固で、変わり者の佐藤弥六でさえ、大変尊敬していたことからもわかる。
さらに在府の時期が長く、津軽人には珍しく社交的な人物で、多くの藩外の知己がいて、例えば杉田成卿、江川太郎左衛門、佐久間象山、藤田東湖ら、当時の一流の人物と深い交流があった。その関係から、勝海舟、福沢諭吉、山岡鉄舟らとも面識があり、佐々木元俊を杉田塾に、木村繁四郎、釜萢庄左衛門を江川塾、勝塾に、篠崎進を下曽根塾に、吉崎豊作、佐藤弥六を慶応義塾に送った。幕末から明治にかけて、弘前藩では優秀な若者を江戸に留学させているが、慶応義塾への留学者27名、海軍、兵学研究のために留学したもの35名にのぼり、これらのコネクションを作ったのが、石居の人脈であったことは間違いない。
こういったことを考えると、もし兼松石居がいなければ、思想的にも東奥義塾ができたかどうか疑わしいし、うがって考えれば、幕末期において弘前藩の佐幕派から勤王派に鞍替えはなかった可能性もある。
今回の講演では、こういった観点から、忘れられた人物、兼松石居の功績について検討してみたい。
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