2012年10月28日日曜日

昔の記憶を探して 古井戸と西坂




 先日、明治二年絵図の記載されている弘前城内の井戸を探しました。雨が降っている中、まず確認しようと思ったのは、現在の植物園、三の丸にある2つの井戸です。植物園は有料のため、先に入り口にある観光ボランティアガイドの詰め所に行きました。「植物園の中に古井戸ありますか」と聞いたところ、係の方があちこちに連絡いただきましたが、誰も知らないようです。明治以降、陸軍がここの施設を作り、かなり厚いコンクリートで基礎を作ったということでした。おそらく跡形もないと判断し、ここは諦めました。本丸、天守閣横の井戸跡と、緑の相談所横の井戸跡は昔、調査し、確認していましたので、この日は、西の郭のものを調査に行きました。観光名所で、皆さんが天守閣を背景に写真をとるところの逆の方の入り口を西堀の方に降りていく坂道の途中にあります。城の西側にある池の横を本丸に行く道で、あまり皆さん行かれないところかと思います。

思ったより短い坂ですが、けっこう急斜面です。とてもこんな所に井戸があるとは思えなかったのですが、よく観察すると、一部平地になっています。何かそのあたりに井戸跡を思わせるものはないかと探しましたが、何もありませんでした。おそらく専門家が調査すれば、もっとはっきりすると思います。さらに地質調査や発掘調査をすれば、確実にわかるでしょう。弘前市で調査していただければ助かります。

ついでに西坂についても、雨の中調べてきました。明治二年ころ、馬屋町あるいは鷹匠町から城内に入る主要な道は、この西坂でした。その後、新坂の方がよく使われ、いつの間にか、この西坂は使われなくなりました。場所は、今の市民会館裏です。

雨の中、市民会館の裏を探してみると、北側の方に右に降りていく道らしきものがあります。おそらくここが西坂でしょう。まったく荒れはてています。坂道は弘前工業高校の方に続いていますので、ついでに弘前工業高校の方からも確認しようと思いました。

工業高校は授業中でしたが、そっと校舎の裏の方、部室のあるあたりの斜面を探していると、大きな木の切り株と、丸い石で両端を示した道の入り口らしきところがあります。雑草に覆われ、はっきりしませんが、左の方に緩い坂が続いています。おそらくはここが西坂の入り口で、ここから左に道が続き、今度は右に折れて、市民会館の裏に続くのでしょう。これもほとんど痕跡しかないものですので、一度専門家の調査が必要でしょうし、300年以上は経つ古道が完全に痕跡がなくなる前に、整備しておくことが大事です。

さらに新坂も行ってきました。今は陸橋となり、藤田庭園から鷹匠町に大きな道となっていますが、旧道は藤田庭園のすぐ横に狭い坂道があります。ここが本来の新坂です。近所の方でないと、あまりお気づきにならないところでしょう。

明治二年といえば、今から約150年前、それでも風景はどんどん風化しています。せっかく絵図があるのですから、できれば一度きちんとした調査をして、必要なら保存する必要があるのではないでしょうか。今保存できれば、将来もまた残るでしょう。そこに住む人々が何代も利用したところは、ある意味、心の風景と呼ばれるものですので、完全に忘れられるのは寂しいことです。長勝寺のい松前志摩守の墓跡のように、このブログでは以前から指摘されていたことが、発掘で確認されましたが、同じように、釜萢堰や古井戸、坂も確認が必要と思います。

写真2番目は、本丸南入り口の坂です。左の平地がありますが、ここに古井戸があったのでしょう。写真3番目は、弘前工業高校側より撮った写真です。木株と石でで坂道の入り口が示されているようで、左に続く坂となっています。写真4番目は、古い新坂です。藤田記念庭園の横にあります。


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