2012年10月20日土曜日

絵図□印


 明治二年弘前絵図の再販を出すべき、原稿を書いている。前回は300冊印刷したが、4ヶ月ほどで売り切れたため、再販を考えた。どうせならその後、調べたことも追加して「新明治二年弘前絵図」として発行することにした。今のところ400字原稿用紙で200枚、8万語くらいになったので、そろそろ仕上げに入ろうと思っている。

 明治二年絵図に載っているすべての人名について調べるというばかげた考えは、実現しそうにはないが、それでもかなり人名がわかってきた。それらを加えて、考察したいと考えているが、これだけは出版と同時に新しい情報が入るのでキリがない。例えば、先祖が弘前藩士であった方から手紙、メールがくると、かなり詳しい家系図を教えてくれることがある。そうすると当時の結婚は、概して同じ階層の中から選ぶことや、養子縁組みが多かったことから、思わぬ人物に繋がることがある。以前、紹介した在府町の弘前藩士、神彦三郎の場合、父親は神熊吉で、その長男となる。そして神彦三郎の姉、長女いく(幾子)は珍田有孚の妻で、有孚といくの間にできた子供が珍田捨巳となる。つまり珍田捨巳にとって、神彦三郎は伯父さんになるわけだ。

 さらに近所に神藤太郎という人物がいる。近所の同じ姓というのは親類関係の可能性は強いが、ふと弘前藩記事一を見ていると、幕末期活躍した神東太郎という人物が非常に多く記載されているが、ある箇所に神藤太郎(神東太郎の間違い)という箇所が一カ所あった。つまり神東太郎(とうたろう)と神藤太郎(とうたろう)は同一人物の可能性が強くなる。(確定:図書館で調べたところ 弘前藩明治一統誌 人名録に 神盛苗 氏ハ藤太郎ト訓ス  とある。盛苗とは神東太郎盛苗のことである)

 さらに作家今東光の曾祖父、今儀右衛門盛方は、今家5代の弥五左衛門盛徳に神忠之丞二男兵太が養子としてきたものである。今東光の祖父、文之助は子供の頃、神藤太郎(東太郎)で養われたと、さらに神藤三郎という人物が、これは神藤太郎の弟か、この文之助に嫁を世話している。
 
 また神熊吉の二女?が近所の船水新五郎に嫁ぐが、新五郎の二男、武五郎は後にドイツに留学し、日本の近代製紙業の発展に寄与した。つまり船水武五郎と珍田捨巳は従兄弟同士になる。

 今東光の妻、きよ夫人は、「東光の曾祖父の奥さんが珍田家から来たのだと思う。」、珍田家から輿入れした夫人の甥が珍田だと語ったという。これを信じれば、曾祖父今盛方の夫人は、珍田有孚の父、有敬の娘であることになる。珍田有敬には男子がなく、娘はいたと思うが、婿として野呂家より野呂粂四郎を養子とした。ところがその娘は早く亡くなり、その後妻として神熊吉の長女いくと結婚したようだ。もし有敬にもうひとり娘がいて、その娘が今盛方に嫁いだなら、今東光夫人の言っていることは正しい。(ここまですべて今東光研究家、矢野隆司さん論文からの引用)

 さらに範囲を広げると、神熊吉に、珍田家、船水家に嫁いだ娘以外にさらに娘がいて、それが今盛方に嫁いだ可能性もある。また野呂家の子孫からも以前メールをいただいたが、今家とも関係があるとのことで、珍田有孚こと野呂粂四郎の妹が今家に嫁いだ可能性もある。何がなんだかわからない。

 話題を変えよう。絵図を見ていると、地図記号のようなものがある。前回紹介した坂を表すーーー印もそうだが、□印が、水路と路の交差するところ約40カ所に記入されている。おそらくむき出しにされた水路の開渠ではなく、地中に埋設されたか、上に蓋をした暗渠と呼ばれるものであろうが、これがわからない。道は荷車や馬も通るため、道に交差する水路は何らかの蓋をしていたと思うが、板でしたのか、石で作ったのか、それとも木組み、石組で作り、上から土で埋設したの、わからない。若党町付近の大久保堰沿いの□印はすべて現在、小さな橋になっているが、江戸時代の水路はそんなに深くなく、今のような立派な橋にする必要はない。また市内いたるところに走る、こういった水路は灌漑用ではなく、糞尿以外の下水に使われたのか、不明である。



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