2012年10月8日月曜日

宮本輝 「水のかたち」


 宮本輝さんの新著「水のかたち」を読了した。久々の長編である。いつも期待を裏切らない作家である。

 毎日のように多くの情報が流れ、去っていく。デジタル時代になってこの流れは加速度的となり、たった1年前のことでも、随分昔のことになってしまう。

 小説家という商売も、こうした時代の流れの速さの中では、あたかも消耗品のようになってしまった。石坂洋次郎という小説家がいる。昭和40年代くらいまで、日本人でこの人の名を知らぬ人がいないほど、有名な作家であったが、今は文庫本の中に、この作家の作品はひとつもない。若い人たちからすれば、全く知らない、読んだこともない作家の一人であろう。あんなに有名であっても、である。

 宮本輝さんの作品は、好きで、発刊すれば、すぐに読んでしまうが、現代日本を代表するこの作家でも亡くなって30年もすれば、人々の記憶からは消えてしまう。かっての井上靖、石坂洋次郎のように。もちろん、こうした現実を最もよく知っているのは、作家自身であろうが、逆に永遠に存在が記憶されるということ自体が、奇跡であり、まさか樋口一葉が自分が将来、紙幣にその肖像が載るとは思っていなかったであろう。50年後、古本屋の片隅に置かれた本を、偶然に手に入れ、それを読み、感動するということもありうる話で、電子媒体によらない本という一種の形となる存在が、奇跡を呼ぶ。たった一人の読者かもしれないが、現在と繋がる糸口が本にはあるし、作家の喜びでもあろう。未来に繋がる。

 本書も、最近の宮本さんの作品の定番、いい人、いいことしかでない。あんないい人いないよ。あんなラッキーなことなんておこらないよ。あんな個性的な生き方をしている人なんて少ないし、それが次々に出会うなんてありえないよ。と思うかもしれない。でもこれは小説という別の惑星に住む人々の話で、いうなれば宮本さんの空想、妄想の世界のことで、読者はその世界に入り込めばよい。そしてそれに癒されるひとがひとりでもいればよい。この世は捨てたものでないと。

 内容は詳しくは語れないが、主人公の更年期を迎えた志乃子という色白で肌のきれいな50歳の女性とそれを取り巻く、家族、友人の話である。キイワードは
「心は巧みなる画師の如し」(心に描いた通りになっていく)と骨董。20歳代では骨董などに全く興味がなかった私でも、この歳になると、古いものに惹かれるし、その歴史に惹かれる。コーカサス地方の絨毯が2枚、我が家にある。いずれも110年以上前のものである。コーカサス地方の小さな村で編まれた絨毯がどういった経路で青森の我が家にあるかと思うと、すごくロマンティクな気分がする。骨董とはそういった魅力をもつ。

 最近、知人の医者からちょっと面白い話を聞いた。親類に霊感が強いひとがいて、死後の世界を幼いころからはっきりわかっていたという。真面目な先生で、変な宗教家ではない。死後の社会はピラミッド構造で、会社に例えれば、社長から平社員までいて、その人の人生の生き方で、階層が上下するというのである。良い行いをすれば、階層がひとつ上がり、逆の場合は、ひとつ下がる。自殺はよほど悪いことか3、4段階下がる。そしてこの死後の世界で何十年間いた後に、完全に記憶がリセットされて生まれ変わる。死ぬのは全く怖くない。次にどんな人生になるか楽しみだと言っていた。

 これは一種の悟りかもしれないが、宮本輝の作品に出る人物は、こうした考えからすれば、みな死後は一段回、上がったところに行けるのだろう。50歳以上の方は是非、読んでいただきたい作品で、元気になるし、前向きに生きようと勇気づけられる。

 今回の作品にも、「とし坊」という人が出てくる。前の作品では、広瀬という人物が、その前の作品には広瀬という寿司屋が、登場する。全くの偶然ではあるが、私の名前は寿秀(としひで)で、親類、兄弟、親からは今でも、お恥しながら、「とし坊」、「とし坊ちゃん」と呼ばれている。こういった偶然がうれしい。

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