兼松しほの写真はない。おそらくは子孫の方が写真をもっているのであろうが、有名な人でなければ、いつの間にかなくしてしまいものであろう。さらに昔の人にとっては、写真撮影は滅多にないことであり、幕末期に生まれた人では、せいぜい数枚、場合によっては一枚も写真を撮ったことがないというのが一般的であったのであろう。
兼松しほについても、おそらくは兼松家には何枚かの写真はあったと思われるが、兼松家は絶えたので、それに伴い写真もなくなった。
ここに1枚の写真がある。長谷川成一弘前大学教授の編集した「写真で見る青森県のあゆみとくらし」(青森県男女共同参画センター)に載っている「東奥義塾小学科女子部 後列左から4人目が脇山つや」とのキャプションがある。そして明治10年にアメリカの新聞「グリーンキャッスルバンナー」を紹介している。説明はないが、明治10年ころの写真としている。
明治11年という時の女子部の女性教師は、中田仲、菊池きく、兼松しほ、脇山つやの4名、明治11年10月には笹森ひさ、佐藤そわが加わっている。明治12年5月にさらに工藤さた、明治13年になるとさらに大和田しなと伊藤みねが加わる。
こういった集合写真は卒業時に撮られたと思われるので、最初に東奥義塾の女子部ができたのが明治8年4月であるので、卒業生がでるのは明治12年以降となり、女性教師は最大で9人程度となる。写真は間違いなく弘前で撮ったものであるが、弘前で最初に写真館を開いたのは田井写真館で明治四年と早い。その後、田井写真館で勉強した矢川姉妹が写真館を開業したのが明治14年である。脇山つやが夫の脇山義保と一緒に函館に行ったのは明治12年の暮であることから、写真に脇山つやが写っているとなると、明治12年以前の写真となり、田井写真館で撮ったことになる。
可能性としては明治11、12年の撮影と思われる。当時の女性教師は中田仲、菊池きく、兼松しほ、脇山つや、笹森ひさ、佐藤そわの6名となる。このうち、写真が残っているが、晩年の菊池きくのもので、上記写真の後列右から2番目の年配の女性が菊池きくであるのは間違いない。北原かな子先生に聞くと、写真キャプションは間違いで、上列一番右の若い夫人が脇山つやだということであった(写真の切取りに失敗しました。写真右の人物のさらに右に脇山つやが写っていましたが、カットしています)。後列は先生が並んだことになろう。菊池きくの左右の女性も兼松しほ、中田仲、笹森ひさ、佐藤そわのいずれかであろう。明治11、12年というと兼松しはは34、35歳となる。
下図の父親、兼松石居の写真を見ると、目元、顔の輪郭から菊池きくの左の女性が兼松しほのように思える。父親に似ているとの保証はないが、当時の34、35歳というと今と違い、老けている。後列、菊池きくの次に年配ということになると、やはり左の人物は兼松しほのように思えてならない。
本日、弘前教会で北原かな子教授の本多庸一の講演聞きました。本多庸一、珍田捨巳、兼松石居の子孫の前で、それも本多ゆかりの弘前教会での講演、これはきついと思いました。講演内容は、エキサイティングでひさびさに楽しい思いをしました。講演の中で、東奥義塾のイング先生など故人の霊が乗り移って文章を書かせたとの表現がありましたが、同様なことは須藤かくをこのブログで書いた折、同じような経験をしました。資料が湯水のごとく集まって来て、わずか1ヶ月くらいでゼロの資料からある程度の資料が集まりました。
本日、弘前教会で北原かな子教授の本多庸一の講演聞きました。本多庸一、珍田捨巳、兼松石居の子孫の前で、それも本多ゆかりの弘前教会での講演、これはきついと思いました。講演内容は、エキサイティングでひさびさに楽しい思いをしました。講演の中で、東奥義塾のイング先生など故人の霊が乗り移って文章を書かせたとの表現がありましたが、同様なことは須藤かくをこのブログで書いた折、同じような経験をしました。資料が湯水のごとく集まって来て、わずか1ヶ月くらいでゼロの資料からある程度の資料が集まりました。
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