九州にお住まいの兼松家の子孫の方より、貴重な資料をいただいた。大変ありがたい。その中に兼松しほについて書かれた資料があったので、その一部を紹介したい。
Heathen Woman’s Friendというメソジスト宣教師の報告書の17巻240ページ、1886年のところに当時弘前女学校(当時はその前身のカロライン・ライト神学校、来徳女学校)の先生であったElla Hewettという方が当時の学校のことを記載している。1886年という明治19年で、この年に今の弘前聖愛中学、高校ができた。
生徒数は10人あまりで、日本語と中国語(漢字)、と英語を学ぶとなっている。授業は朝の8時20分に声楽から始まり、おそらく賛美歌を歌うのでだろう。書道と裁縫で授業は午後4時ころに終わる。その後、7時15分に夕べの祈りに集まり、年長者は9時ころまで自習をする。土曜日には入浴したり、髪を漉いたりし、年長者は日曜日、木曜日の夕べの礼拝に、年少の生徒は金曜日の夕方に教室でお祈りをする。この年のクリスマスの直前に全校で招待された結婚式があり、教会の主要メンバーの娘が教会で式を挙げたようだ。
兼松しほついて、「私たちは生徒数が増えて今年は(1886)新しい先生を雇うことが必要になってきました。幸いなことに弘前出身の方をお勧めいただけることになりました。彼女は昨春、私たちが弘前にいました時に私が個人指導を受けた先生でした。彼女は良家の育ちで、威厳があり、経験も豊かな女性です。彼女はかって弘前の普通女学校(東奥義塾女子部)で教鞭をとっていました。彼女はキリスト教徒ではありませんでしたが、キリスト教についての知識は深く、キリスト教に好意を持っていました。私たちのところに来て間もなく彼女は洗礼を申し出ました。彼女は学びたいという興味と意欲がはっきりしていて、彼女はこの学校ばかりでなく、ここ弘前でも貴重な助けになる人です。
私たちががっかりしたのは、2、3週間して、彼女は皇后様の学校に在学中のある貴族のお嬢さん(津軽理喜子のこと)の侍女として仕えるために東京に行くように言われていると申し出たのです。彼女は私たちのところを去るのはいやだと感じているように見受けられました。私たちには、彼女がキリスト教の学校で教師をするよりは、たとえ召使いでも貴族の家に住む方が名誉なことと考えはしないか、そういう考えで彼女の心が動くのではないかと少し心配でした。もっともこの上京の話は彼女の家族が家臣として仕える大名に列せられる人からの依頼なので尊重せざるを得ないと感じていると言いました。彼女の本当の気持ちがどうだったにせよ、彼女の家族は疑いもなく上京すべきだと感じていましたし、そのように彼女に働きかけていました。彼女は12月まで私たちところに留まり、12月に彼女のクラスの試験をして暇乞いの準備をしました。私たちは彼女が去る前にお別れ会を催しました。私たちの牧師さんと奥さん、白人の先生、そしてその他数人に日本人の友人が出席しました。しかし感動的なお別れは、彼女の出発の前夜でした。女生徒たちは私がめったに聞いたことがないほどひどく泣きじゃくり、お別れの挨拶をしました。お医者さんの先生が私に申されるに、生徒たちの言葉を掛けて、もし兼松先生を愛しているなら、先生のためにお祈りして、そんな悲しみにくれているばかりではだめですよと言い聞かせたようです。」
これをみると兼松しはは、明治19年(1886年)の12月に津軽理喜子の家庭教師として上京したことがわかる。42歳ころの話で、明治29年に腸チフスでなくなるまで、10年間、東京の津軽家にいたことになる。津軽理喜子の生涯については、熊本の細川家の縁故の方より手紙をいただいたが、プライバシーに関わることが多く、公開しない。写真は羽賀与七郎著「津軽英麿伝」から引用した。若い時はきれいなお嬢さんであったが、苦労も多く、後年のお顔は厳しい表情である。
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