函館の遺愛女子中学校・高等学校は、北海道でというよりは、関東以北では最も古い女学校で、創立は明治15年(1882)というから、今年で130年を迎える伝統校である。アメリカ、メソジスト教会のM.ハリス夫妻が、駐独・アメリカ公使婦人C.R.ライト婦人の献金で、函館、元町にカロライン・ライト・メモリアル・スクールとして創立された。明治18年には校名を遺愛女学校に変えて、現在に至っている。
第一回入学者、6名は、すべて弘前在住のキリスト教信者の子女で、第二回入学者もすべて、弘前出身者で占められていた。当時、函館は文明開化の新しい時代にはなっていたが、未だキリスト教徒は少なく、新しくできた外国人の学校に自分の娘を通わせようと思わなかったのであろう。確か、今東光の母親あや(伊東重の妹)は四回生で、青森の港から小さな船で命がけで、函館に渡ったと追想している。他にも、鎮西学院の中興の祖と讃えられる笹森卯一郎の妻、三上とし(敏)(明治4年—昭和35)は、高等小学校卒業後の明治17年に遺愛女学校(当時はカロライン・ライト記念学校)に入学し、明治25年に卒業している(三回生)。三上としの記憶によれば、寮生活では会津出身の舎監、雑賀アサにより厳しくしつけられた。雑賀アサは戊辰戦争の時に会津城に篭城した一人で、下北半島に移住していたが、見いだされて当時、ここの舎監をしていた。三上とし(笹森敏子)と伊東あや(今綾)、野田こう(古澤香)の三人は終生仲のよい友達だった。山田良政の妻、敏子は明治9年生まれで、11歳の若さで、明治20年に遺愛女学校に入学し、高等科を卒業したのが、明治29年、そして2年間、宣教師の子弟の家庭教師をするなど、計11年も遺愛女学校にいたことになる。当然、英語はペラペラであった。高谷徳子(山田とく 明治元年—昭和5年)は、東奥義塾女子小学部から、県立女子師範を経て、明治15年に遺愛女学校に入学し、23年に弘前に帰り、弘前女学校の教壇にたった。遺愛女学校の一回生であり、当時の女子としては最高の教育を受けた一人であり、後に実業家の高谷貞次郎と結婚し、生涯、キリスト教徒として種々の社会事業を行った。また高谷徳子同様に、東奥義塾の女子小学部に入学し、明治11年、17歳で受洗した大和田しなも、遺愛女学校に入学し、後に母校の教壇にたったが、おそらく一回生か、二回生であろう。また海軍の中村良三大将の姉、のぶは、弘前女学校の本科第一回の卒業生で、米婦人宣教師のボーカス校長の教え子第一号であった。中村のぶは、卒業後、医師である中村春台の自宅の一部を改築して、弘前で最初の子守り学校を開いた。中土手町という商家町にあって赤子から幼児まで預かり、授業料なし、教材、文具まで与えて教育していた。十名以上の子供たちからは「おのぶさん」といわれ親しまれていた。中村のぶ(1875-1939)はその後、養生幼稚園の保母を長く勤め、弘前の幼児教育の草分け的な存在だったようで、中村大将は生涯、3歳上のこの姉のことを尊敬していた。
函館の遺愛女学校は、弘前出身者が多数を占めるため、弘前でも地元に女学校を作ろうという運動が起こり、作られたのが弘前女学校である。明治19年(1886)にライトに因んで来徳女学校として開校した。翌年には弘前遺愛女学校、明治22年には弘前女学校、戦後、弘前学院聖愛中学、高校として現在に至っている。創立から126年であるから、これも古い。山鹿元次郎が初代校務担当者で、教師には後に本田庸一の妻となる長嶺さだ(本多貞子)で、東京女子師範を卒業した才女で、他にも青森県立弘前女子師範学校を卒業した白戸サタや成田ラクがいた。非常の充実した教師陣であった。出資者の中には、黒石の資産家である加藤宇兵衛の名前があるので、後に支那方面軍の最高司令官の岡村寧次大将の妻チエも黒石からここに通ったのであろう。
この女学校のおもしろいのは、男子入学も必ずしも禁じられている訳でなく、菊池九郎の長男で山田純三郎と一緒に中国革命に協力した菊池良一や、菊池三郎の長男、菊池辰雄もここに通っている。
ちなみ弘前で最初に幼稚園が出来たのは、明治35年の弘前市立幼稚園で、その明治39年(1906)には若葉幼稚園(聖愛幼稚園)と養生幼稚園があり、前の二つの幼稚園は平成まであったが、現在あるのは養生幼稚園のみとなっている。106年になる。
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