昨年、実家に帰った時に、誰でも一冊は本を書ける。それは自分史だと調子に乗ってしゃべっていると、その後、うちの母が少しずつ、子供の頃の故郷、徳島県脇町の思い出をノートに書き出した。ある程度、枚数がたまったら送ってくれ、一度ワープロに打ち直し、イラストも含めて本の体裁を考えると答えた。
昨日、自分の書いた絵と一緒に自叙伝らしきもの、というか子供時代の脇町の思い出を書いたノートを一緒に送ってきた。親の文書を読むのは、子供としては初めてである。手紙は学生の頃、何度かもらったが、こういったまとまった文章を見るのは初めてである。
早速、昨日からコンピュータで、ワードで打ち込んでいる。昨日と今日、二日間で全体の約1/10で、400字原稿用紙で100枚以上はある。さすがに画家が本職なので、イラストや絵は面白いし、文章の戦前の雰囲気がよく書かれていて面白い。
もうすぐ学会なので、この連休中に少しでもワードに打ち込んでいきたいが、多分完成は6月以降となろう。昔の写真やイラストも含めると、それなりの本になろう。友人や子供、孫、親戚に送れば喜ばれるだろうし、実家の徳島県脇町の人々にも興味があろう。
今回の「新編明治二年弘前絵図」でも、こういった昔の思い出を書いた本が案外、役立った。釜萢堰の風景などは明治、大正当時にそこに住んでいたひとの記述が一番、リアルであり、参考となる。お袋の文章の一部を抜粋したい。
城下町の町家の四女として生まれ、女七人、男一人、父母は大変だったろう。大勢の子供たちは皆、病気一つせず、病気と言えば“はしか”だけ。真っ赤な顔をして、三、四日寝ると快方に向かう。“はしか”になると、お見舞いの人がバナナの大房か、リンゴを持ってくる。バナナやリンゴは最高のぜいたくで、病気にならないとなかなか食べられない。陰干しにして保管している「伊勢えびの殻」を煎じてのみ、おとなしくしていると、二、三日で熱は下がったが、バナナやリンゴがうれしく、また病気になりたいと思ったりした。
店は創業130年。明治の時代に祖父が伊予川之江から商都といわれていた脇町にやって来た。祖父は川之江の米屋の三男坊で、仕分けして阿波の国に来た。川之江の本家は、元は漢学者の家で、古いご先祖の霊舎(みたまや)が八幡様の境内の小社に祭られている。母の従兄弟は戦前、戦後と川之江町の町長、後に県会議員として終生を県民のために尽くしてきた人望者だった。名誉市民となり、市民葬が行われた。
祖父は最初、脇町の中心にある北橋近くに店を構えたが、大正元年の大洪水で、今の場所、坂の上に越してきて、小間物、化粧品店を開店した。その後、父の代に至り、卸業に転じた。大阪の問屋から商品を大量に仕入れ、郡部の小売業者に売る。だんだん規模も大きくなり、今のスーパー並みに何でもあった。小間物、化粧品、袋物、文具、高級品から一般並みのもの。高級品にはべっこうの櫛、金銀細工、サンゴのかんざし、また喫煙道具にはきれいな物があった。キセルは金銀の彫刻、金口、銀口、根付けは象牙といった、とてもきれいな模様の高価なものを売っていた。良家の主人などがよく来ていた。また女物は、土地の売れっ子芸者さんが、旦那をつれてよく来ていた
。
店は間口七間くらい、土間に入ると畳敷き、大きな火鉢が置いて、店には天井までずっしり商品が積み上げられ、家の横の壁際は一間くらいの通路、両側には大きな棚があり、卸用の商品の石けん、髪油、洗濯石けんは大きな木箱に入っており、量り売りの髪油も一斗缶に入っており、店頭では一斗缶から杓で一杯、二杯と売る。
父は店の奥の帳場に座り、大きな硯で墨をすり、いつも帳面を書いたり、注文書を発注したりしていた。父の役目は、店員、二、三人に地方へ運ぶ商品の仕切帳を書くことであった。店員は自転車の後ろに大きなリヤカーをつけ、商品を積んで、朝出かけ、夕方帰る。西は池田、東は塩江、だいたい西徳島地区を担当していた。店は母と番頭さん、見習いが店番をし、小僧さんは掃除、子守り、台所をする小母さんは朝早くから夜遅くまで通っていた。何時も七、八人のひとがいた。子供も含めて、合計で十五、六人いたことになる。
当時のお嫁入りは、全部自前であった。日本髪一式、毛(たし毛)、かんざし、櫛、かんざしはビラビラといって、とてもきれいに細工していた。嫁入り前日に結う「桃割れ」という髪の道具一式、化粧品、刺繍入りの半衿、一世一代の買い物である。花嫁は、二、三年は何も買わなくていい程の物を持っていった。大荷物の買い物で、お金に糸目はつけなかった。母が細かく、これらの品々を揃えていた。店は終日、忙しかった。
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