2013年4月29日月曜日

阿部はな 5



 阿部はなについては、その後新たな情報はなかったが、小野一雄のルーツというブログ(http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/523/)に外国医学校出身の女医についての情報が載っている。原本は日本女医会雑誌73号、昭和11年を参考にしている。

 それによると我が国に最初の外国医学校を卒業したのは岡見京、東京、ペンシルベニア女医学校 明治22年登録となっている。岡見京子のことで、出身は東京ではなく、南部藩の商家である。2番目は菱川ヤス、神奈川、外国医学校、明治24年登録とある。三番目は福井繁、岡山、ドイツマルブルヒ大学、明治27年登録とある。4番目は中村唯、熊本、マルブルヒ大学、明治31年登録、そして5番目が阿部ハナ、神奈川、外国医学校、明治31年登録、6番目が須藤カク、青森、外国医学校、明治31年とある。

 さらに日本杏林要覧(明治42年)の説明も載せており、阿部ハナは神奈川平民、慶応二年生まれ、神奈川県横浜市仲村町1557、須藤カクは神奈川士族、文久元年生まれ、神奈川県横浜市仲村町1557となっている。

 この記述は、重要である。これまでHana Abe と表記したものを勝手に阿部はなと書いていたが、少なくとも安部ではなく、阿部であることがはっきりした。また生年月日が慶応2年、1866年であることがわかった。さらに神奈川平民となっており、少なくとも阿部ハナは平民出身であることがわかる。ただ弘前出身の須藤カクが神奈川士族となっているところから、阿部ハナの出身が神奈川かどうかははっきりしない。住所の横浜市仲村町は今の中村町のことで、横浜共立女学校にちかい。

 そこで阿部ハナについて、もう一度まとめると、生まれは慶応二年(1866)で、横浜共立女学校入学が1879年ころ、1886年に卒業し、1893年にシンシナティー女子医学校に入学した。27歳の時である。1911年に結核のためウェストデールで、45歳で亡くなったことになる。須藤カクが1861年生まれであるから、阿部ハナは5歳年下となる。

 2012.7.22のブログでCincinnati Enquirer Mar 3,1895の記事では、須藤カクはたった10歳の時に兄と一緒に東京に行き、東京に適当な女子教育機関がなかったため、横浜共立女学校に行ったとの記事がある。須藤カクが横浜共立女学校にいたのは1876-1881年と推測され、入学時の年齢は15歳ころとなる。それに対してもしこの記述の須藤カクが阿部ハナの間違いであれば、阿部ハナが横浜共立女学校に入学したのが11歳ころと仮定すると、入学は1876年ころで須藤カクと同期となり、卒業が1886年で10年近く、学校にいたことになる。

 ここからは小説風となるが、五所川原羽曳野の大地主阿部家の一族が、長男阿部漸が東京に進学する折、妹の阿部ハナも一緒に東京で教育を受けたいと言い出し、二人で遠路苦労を重ねて東京にいった。兄は明治法律学校で法律を学び、その後、横浜で弁護士業を行う。一方、10歳の妹、ハナは入るべき学校がなかったところ、郷里の弘前から須藤カクが横浜共立女学校に本多庸一のつてで入学することを聞き、ここに入学することにしたのだろう。須藤カクにとって、阿部ハナは妹同様であり、アメリカに留学する折も二人は一緒に行ったのであろう。阿部ハナが平民となっているのは、豪族で名字帯刀を許された大阿部家とはいえ、平民となるのであろう。兄が横浜で弁護士を開業していたので、ハナも神奈川平民となっていたのではなかろうか。

 東北女子大学保村和良先生が「明治期にアメリカへ渡った本県出身の女性医師 : 須藤カクと2人の共働者Dr. ケルシーと阿部ハナ」という重要な論文を発表しており、そこには晩年の須藤カクの写真が載っている。この論文はインターネット上で見れるため、読んでいただきたい。この写真を見ると、どうも上のイラストの右に座っているのが須藤かくであるようで、私の間違いだったかもしれない。

0 件のコメント: