母の文をワープロに打ち直している。最初すぐにできるかと思ったが、割合、書き込んでいる。ここ3日くらいで、16000字打ち込んだが、後40000字くらいあり、原稿用紙で150枚、イラストもそこそこあるので、100ページ以上の本になろう。大正から昭和初期の徳島県脇町の風情がわかり面白い。一部、盆踊り(阿波踊り)の部分を載せる。地元の人でも80歳以上の方でないとわからないと思う。多少、プライバシーに関係する文もあるが、すべて故人であり、供養と思い、勘弁してほしい。
八月盆踊りは、本来は七月七日。七夕から始まるのが元である。祖先が家に帰ってくる準備期間らしい。夫を妻を、子を亡くした人が一年一回、相見る日である。踊りのルーツは徳島沖ノ洲、漁に出て帰らぬ人を海に向かって帰ってこい、帰ってこいと迎える。老女が島田のカツラをつけ、背には人形を背負い、帰ってくる人を迎え、一夜を踊りあかす。それが盆である。
盆の日、日中の暑い最中に美しい着物に菅笠で顔を隠し、三味線を四、五人で弾きながら町を行くことを「ながし」という。この日は、日頃あまり外に出ない夫人達もながしをする。脇町は芸所で、たいていの人が三味線、琴、琵琶、尺八、笛をたしなむ人が大勢いた。
昼下がりの暑さも忘れて、きれいな声色に癒される。夏の日、三味線の音色が、よくとけ合って静かで華やかである。清元、義大夫などいろいろなお師匠さんがいた。町のお医者さんで、お妾さんといつも一緒にいた先生は、義大夫が得意で祭りがくると、空き地で義大夫を語り、文楽人形の舞台を作り、町の人に披露した。弁護士さんや先生がお妾さんを囲うことなど誰も何とも言わなかったおおらかな時代であった。
踊りは三日三晩続きます。山から里から大勢の人が出てきます。本通りの家は門に床机を出して用意する。門には提灯にローソクを立てる。町内に何人か名人がおり、男の人は浴衣を尻まくり、白足袋、頭には豆しぼりの手拭。女の人は赤や水色の長襦袢、子供は甚平さん。魚屋の宗さんは踊りの名手だった(戦死した)。
家の斜め前に魚屋で料理店をしていた店があった。じいさん、ばあさんの出番である。じいさんは元やくざでなかなか恰幅のよいハンサム、ばあさんはとても粋な人だった。じいさんは太鼓、ばあさんは三味線。よく響く音色だった。床机に腰掛け、片肌脱いで弾く三味線は評判の弾き手だった。多くの人が家の前で踊った。最後の十六日、お盆も踊りも最後、十二時近くになると人通りもなく、家の前だけ、五、六人残る。ばあさんの「つまびき」の音色で四、五人がこれで終わりと踊る。澄み切った夜空に月が中天のかかり、踊り子を照らす。だんだん悲しくなる。なんで踊りが悲しいのか分からない。虫の声がケロリン、ケロリンと聞こえ、無口に踊り、涙が出そうになる。
ああこれは先祖様が空に帰っていく本当の宴だと思った。別れを惜しんで、また一年、さようなら、さようならであろう。誰もいなくなり、ただ月だけが冴えわたり、遠くに虫の声がする。今は踊りの名手、宗ヤンも清さんも北支で戦死してあの踊りの姿だけが目に残る。
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