2007年2月14日水曜日

山田兄弟 3



5、6年ほど前から弘前の偉人の生誕地を探してきた。山田兄弟の生家も昔、撮った気がしたが、長い間わからなかった。古いカメラの中に3年間もフィルムを入れっぱなしにしていたことに最近気づき、現像した。左の写真はおそらく茂森町から在府町を撮ったところだと思う(春になったらもう一度撮ってきます)。奥に入ったところの右が陸羯南の生家(中田謙斎)で、その前が山田兄弟の生家である。明治時代は今より1mは道幅は狭かっただろうが、ほぼ変化はない。この在府町というところは数多くの傑出した人物の生まれたところである。1.陸羯南、2.山田兄弟、3.笹森儀助、4.本多庸一、5.珍田捨巳の生誕地である。番地でいうと陸羯南は在府町22、山田兄弟は在府町23、笹森儀助は在府町54、本多庸一は在府町3である。これらの人物の共通点はいずれも自分の栄達を求めず、無私な人物であったことである。分野は異なるが、何かしら似通った性格を持ち、あたかも何かに感染したように極めて限定した地区に多くの人物を輩出した。同様なことは、文学の世界でもあり、佐藤紅緑は親方町で生まれ、その後元大工町に引っ越した。このすぐ近くの本町71で詩人の一戸謙三、本町59で福士幸次郎が生まれた。さらに今東光の母親の生家は佐藤紅緑の隣で、また作家の石坂洋次郎は学生時代過ごした塩分町も近い。いずれも半径100mに入る近さである。
以前、勤務していた鹿児島でも西郷と大久保の生家のあまりの近さと、その近辺に多くの明治の人物を輩出したことにびっくりした。田舎のことで近所との関係というのは想像以上に深く、山田兄弟も上記の人たちの何らかの世話になったのであろう。

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