2007年2月13日火曜日

山田兄弟 2


良政の弟、純三郎は南京同文書院を卒業後、満鉄に入ったが、兄の志を受け継ぎ、孫文の革命を支援していた。自分を誇大に語ることを好まず、自らを厳しく律したため、中国革命の同士の信頼は厚かった。上海で袁世凱の刺客により陳其美が殺されたが、その際女中が抱いていた純三郎の娘民子(妹は国子、中華民国にちなむ)がコンクリートの上に落ち、聴覚と脳に障害をもった。また蒋介石の次男(緯国)をしばらく預かったりもした。孫文の臨終に際しては、立ち会ったとされているが、純三郎の性格から現場にはいても枕頭には立ち会わなかっただろう。日中戦争の時は、日語専修学校や上海雑誌社の社長などをしていたが、日中戦争には常に反対していた。蒋介石が「恨みに報いるに徳をもって行う」と全中国に号令し、在支邦人を帰還させたが、後に「わたしに感謝は必要ない。感謝すべきはあなたがたの先輩です」と語っている。蒋介石とは宋慶齢との結婚のことで仲違いしていたが、この時、蒋介石は純三郎のことが脳裏をかすめたにちがいない。
おそらく孫文、蒋介石と最も親しい日本人と思えるが、戦後はその功を誇らず、ひっそりと暮らした。晩年、蒋介石から国賓として招かれた際のエピソード、純三郎は蒋介石を蒋さんと呼んでいたが、用件を伝えにきた一人の青年をみて「蒋さん。あの青年は」「息子の経国です」「ベンコか」といって大笑いしたとのことである。ベンコとは一発でという意味である。
山田兄弟については寶田時雄のHP(http://www.thinkjapan.gr.jp/~sunwen/sun08.htm)にくわしく書かれており、このブログもこれを参考にした。また山田兄弟の資料は良政が教え、純三郎の学んだ東亜同文書院の後を継いだ愛知大学に保管されているが、地元弘前では蒋介石の碑文があるだけである。その他、陳舜臣「孫文」と保坂正康「昭和陸軍の研究」も参考にした。

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