2007年2月12日月曜日

山田兄弟 1




山田良政(1868-1900)、純三郎(1877-1960)兄弟は、弘前市在府町23で生まれた。生家の真ん前が明治の不屈のジャーナリスト陸羯南の生家である。父、晧蔵(1838-1918)は弘前藩の中級藩士であったが、維新後は没落した武士を助けるため授産事業として漆器樹産合資会社をおこし、現在の津軽塗の発展に寄与した。
兄、良政はもの静かで、思慮深い性格で、陸羯南にも大変かわいがられた。青森師範を出たあと東京の水産講習所を卒業した。その後、北海道昆布会社の駐在員として中国に赴任し、中国語の習得に努め、日清戦争では通訳官として参戦した。その時に中国革命の父、孫文と知り合い、革命に参加していく。孫文の最初の蜂起、恵州蜂起では武器の援助のため台湾総督児玉源太郎と孫文の交渉を斡旋した。おそらく郷土の先輩、一戸大将の仲介があったのであろう。伊藤内閣の支持が得られず、結局この蜂起は失敗する。仲介した責任をとり良政はその説明のため直接現地をおもむき、清軍に捕らえられ処刑される。日本人と言えば処刑はされなかったであろうが、革命のために殉難した。革命成功後、日本に来日した孫文は良政の死を嘆き、自らの墓碑銘を書いた。孫文の書の中では最高というひともいる。

孫文の革命を助けた日本人として、宮崎滔天や頭山満、梅屋庄吉、南方熊楠などが取り上げられるが、実際に革命の同士、一員として参加した日本人は山田兄弟しかいないのでなかろうか。弘前大学にも多くの中国人留学生がいるが、その地元ですら山田兄弟を知るひとは少なく、唯一山田家の菩提寺の貞昌寺に墓碑があるのみである。

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