2007年2月4日日曜日
珍田捨巳 2
珍田と昭和天皇との関係を話す。昭和天皇自ら最も楽しかった思い出として摂政時代のヨーロッパ訪問を挙げている。20歳の皇太子からすれば当時64歳の珍田とは親子以上の年齢差があったが、初めての外の世界に出た皇太子は、すでにイギリスにおいてその誠実な人柄により信頼を得ていた珍田は誠に頼りになる存在だった。その後、天皇即位後に侍従長として招いたは、よほどこの外遊を通して、その人柄に信をおいたからであろう。
ハーバート・ビックス著「昭和天皇」(講談社学術新書)に摂政時代から即位にいたる珍田と天皇の関係を触れている。大正末期から昭和初期にかけて、日本は左翼思想、国家主義など多様な思想が混ざり、非常に混乱した時代であった。その混乱から即位した昭和天皇を守る、あるいは教育する仕事は宮内大臣牧野伸顕と珍田ら宮中グループがになっていた。珍田の死後、牧野は孤軍奮闘、国家主義、軍部と戦ってきたが、外務省に強いこねをもつ珍田がいなくなったことは痛手であった。その後、日本は太平洋戦争に突入していく。
昭和2年の遠州灘の海軍大演習の折、軍令部長として天皇の身辺で説明に当たった鈴木貫太郎大将を自分の後任の侍従長に推挙した。鈴木が侍従長として使えたことが後年に天皇の聖断につながったとも考えられ、あれだけアメリカとの関係悪化を憂いていた珍田が推挙した鈴木によって戦争に終止符が打たれたのは皮肉なことである。ちなみに終戦時の侍従長は両親が弘前出身の藤田尚徳(ふじた ひさのり)である。大正7年に藤田少佐は日本大使館の海軍武官としてイギリスに赴任したが、その頃ちょうど珍田は英国大使だったため、同郷のものとして親しくなったようだ。
一度も大臣にはならなかったが、小村寿太郎、牧野伸顕らからの強い信頼を得て、黒子として明治、大正の日本に奉じた珍田はもっと評価されてもよい。
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