2007年2月24日土曜日

笹森儀助 3


笹森儀助は、弘前市在府町54番地で生まれた。現在の木村産業研究所のはす向かいにあたる。先に紹介した陸羯南の生家も近く、在府町3に生まれた明治日本キリスト教界の指導者であり、青山学院の実質的な創設者の本多庸一の生家も非常に近い。底辺の人々の視点からルポを書くという儀助の精神は、反骨のジャーナリスト陸羯南に引き継がれ、さらには弘前市出身のルポライター鎌田彗さんにもその系譜はつながっていく。
木村産業研究所(1932)は、日本近代建築の礎を築いた前田国男がル・コルビュジェのアトリエから帰国後、最初に建てた建物である。今みると別にどうってことない建物だが、これが70年前の建築と知ると驚く。1935(昭和10年)に弘前を訪れたブルーノ.タウトがどうしてこんな辺境の地に、コルビュジェ風の白亜の建物があるのかと驚いたそうである。他にも、弘前には前川の初期から晩期の建物が多くある。弘前市中央高校行動(1954)、弘前市庁舎(1958)、弘前市民会館(1964)、弘前市立病院(1971)、弘前市市立博物館(1976)、弘前市緑の相談所(1980)、弘前市斎場(1983)などである。なぜ、こんなに多くの前川の作品があるかというと、前川の母親菊枝さんの実家が弘前で、菊枝さんの兄は有名な外交官佐藤尚武で、前川もフランスに行く折、このおじを頼ったことに端を発する。同じく津軽藩士で、広島電力の社長を努めた木村静幽が、郷里弘前に地場産業の研究機関を設立しよう考えていたが、ちょうど佐藤尚武と通じて前川と親交を結び、木村産業研究所の設計をすることになった。その後、その縁から弘前の公共建築にたずさわった。
ちなみに珍田捨巳の妻いはは、一緒にアメリカに留学した外交官佐藤愛麿の妹で、佐藤愛麿の養子になったのが、いとこの田中坤六の次男の尚武ということになる(愛麿の三女文子と結婚した)。
アーハウス 前川國男と弘前(アーハウス編集部)を参考にした。

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