2007年2月5日月曜日
珍田捨巳 3
珍田の生誕地は弘前市森町、時鐘堂前である。調べると大体左の写真当たりが生誕地と思われる。こういうのを調べるのに非常に役立つのが、弘前市史の付録に入っている「士族在籍引越際之地図」である。これは明治4年(1871年)に調べられた、今でいうところの住宅地図で誰がどこに住んでいるか、小さな字でみっしりと書き込まれている。時鐘堂は今の弘前消防署の隣あたりにあるのがわかり、それから類推した結果である。珍田はその後、弘前市蔵主町12番地に引っ越した。
この地図は大変おもしろく、現在の町がすべて丁となっている。町割りで最初、道が造られ、その道沿いに家が立ち、町になったため、丁(street)となったのであろう。現在では町の単位はひとつの区画、面の単位であったのに昔は、線の沿うものとして町ができたのであろう。今住んでいるところも道に面したところの幅は百メートルにわたり、みごとに同一(9歩、間口3間?)であるのに対して、後ろは無限大?、実際は後ろの道との半分が境になるため、極端に長細い家となる。京都の町屋もそうである。昔は前が家で、後ろが畑になっていたようだが、今の住宅としては誠に使いにくい。
弘前は戦災に合わなかったため、明治4年、おそらく江戸時代から、中心部の基本的な骨格は変化しておらず、萱町、瓦ヶ町、緑町、徳田町、南横町、北横町、坂本町、御徒町など町内住人が数十人しかいない小さな町がいっぱいある。まことにタクシー運転手泣かせの町で、自動車の普及で道幅などは広くなったりしているが、道そのものはほぼ江戸時代から変化はない。
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