2007年2月8日木曜日
一戸兵衛 1
一戸大将(1855-1931)は弘前市田代町8の父の生家である船水邸にて生まれた。東奥義塾の一回生として入学(この学年には珍田捨巳、佐藤愛麿、陸羯南など日本の外交、言論、軍人を代表するすひとを輩出して、本当にすごい学校と思います)。その後貧乏な青年が名を上げるのは軍人になるしかないと、陸軍士官学校(戸山学校)に入った。軍人としての昇進は遅かったが、日露戦争当時、金沢第9師団の歩兵第6旅団長の少将として、乃木希典大将の第三軍に加わり、旅順攻撃に参加した。第一回、第二回の攻撃では、ほとんどの部隊が強力なロシア軍の防御に総崩れのなか唯一一戸は敵の堡塁の奪還に成功した。旅団長自身が最前線で、大隊、中隊を率いての戦いは、いかにこの指揮官が勇敢であったかを示すもので、乃木ら第三軍の指揮者とは対照的である。この旅順での一戸の優れた指揮ぶりは、ロシア軍にも「イチノヘ」の名を知らしめ、恐るべき敵将として高く評価された。
太宰の津軽の中で「帰郷の際には必ず和服にセルの袴であったと聞いている。将軍の軍装で帰郷するならば、郷里の者たちはすぐさま目をむき、肘を張って、彼なにほどの者ならん、ただ時の運つよくして、などと言うのがわかっていたから」と一戸大将のことを述べている。実際はこういった格好が普段から好きだったようだ。尾崎紅葉夫妻が列車に乗ると前に熱心に手帳に書き込みをしている古ぼけた洋服を着た老人がいた。商売の仕入れ計算などしていると思い、おやじさん、景気はどう。何とか計算は終わったのかいと話すと、その老人は何とか終わりましたと答えた。あとで副官が現れ、在郷軍人会会長として全国を回っていた一戸であったというエピソードがある。教育総監、学習院院長、明治神宮宮司、在郷軍人会会長などのその後の職歴をみても、人格者であったのであろう。
一戸は旅順攻撃の陣中でも、グローゼウッツ「大戦学理」という本を熱心に読んでいた。大島中将がからかうと「一戸はこういうところの方がより真剣に読めるのです。そして真髄にふれるものがあるのです。明日死ぬかもしれないこういう戦場での一か月の方が、平和時の一年より、はるかに勉強できる。部下を一人たりとも無駄に死なせないと思うと読まずにいられない」と答えている。
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