武宮隼人校長の兄、武宮雷吾神父
“武宮隼人校長”のデーターについて、インターネット上ではこれ以上ないと判断し、六甲学院の図書館に問い合わせてみました。すると誠に丁寧な返事をいただき、さらに「追悼 武宮隼人先生を偲びて」(六甲学院、昭和56年)という貴重な本を送っていただきました。大変、感謝すると同時に恐縮いたします。
昭和56年というと、私は25歳で、東北大学にいた頃で、当時は六甲学院のことについては全く関心がなく、この本も同窓会のメンバーには通知があったと思われますが、記憶にありません。いずれにしても武宮先生について書かれた本では最も重要な資料と思われます。
在職、OBの先生方、卒業生の思い出が中心となった本ですが、K・ライフ先生が書かれた「六甲中学校創立のころ」に武宮先生の履歴がくわしく書かれています。ライツ先生は、武宮先生とはイエズス会の3年後輩ですが、ドイツの神学校、上智大学、六甲学院でずっと一緒、昭和二年から五十六年までの五十四年間におよぶ親友で、武宮先生のことを最もよく知る人物です。ライフ先生は六甲学院の創立時、副校長格、武宮先生の補佐役のような存在で、戦後20年後半に上智大学に戻られ、神学部教授、神学院院長などを勤めました。
巻末に載る履歴にライフ先生の記述を追加してみました。
1900年 二月十九日、東京市麻布に父武宮一(はじめ)、母えまの九男として生まれ、霊名フェリックス
* 「武宮師の武士道精神は、父親の遺産であった。鳥取の鉄砲隊長であり、明治維新後は、東京築地に移り庶民階級のしっかりした若妻をむかえ、警察署で剣道の指南をつとめた。旧制六甲中学校で剣道がどれほど重んじられていたかは、終戦後六甲中学校に入学した卒業生はよく覚えている.略 「キリシタン」として隼人師は二代目の信者にすぎなかったが、明白な証明がなくても自分の先祖が大分から鳥取に来たので、(そこには武宮という町もある)彼らがキリシタン時代にそこに居てキリシタンであったことを彼は確信していた。とにかく東京の下町に住んだ時代に全家族のキリスト信仰への道を開いたのは武宮師の父ではなく、その母であった。求道者となった彼女は洗礼準備が済むと二、三人、その時までに生まれた子供と共に、主人にはだまって洗礼を受けた。彼は最初の怒りがおさまった後、妻の祈禱書を好奇心にかられて読み、十字架の道行きの祈りに不思議に感激してしばらく後、妻には何も云わず求道者と成り洗礼を受けた。係りの神父に妻からキリスト者として紹介されたのである。当時の彼の生活は、きわめて貧しかった。十人の子供達、その年長者たちは、小学校を卒業して社会に出たが、勤勉な働きによって、たくわえた財産によって下の子供達に高等教育の道を開いた。末っ子の隼人は、三男にあたる兄を自分の真の恩人として尊敬していた」
ここで父親の名が、武宮一(はじめ)であることがわかります。この武宮一が武宮貞幹(丹治、甚之進)と同一人物かを判断するのは難しいです。前に述べたように鳥取藩藩政資料によれば、武宮権之丞(雅楽允)が引退し、丹治に譲ったのは慶応二年一月(1866)でした。また近代砲術を学びに水戸藩に留学したのは安政二年(1855)で、さらに戊辰戦争の頃は多くの部下を持つ鳥取藩の砲術部隊長でした。これらのことから、武宮丹治は遅くとも1840年-1835年の生まれと推定されます。もし丹治=一あれば、丹治60歳から65歳の時の子供となります。九男、一女を生むには、普通15年から20年はかかるので、母えまが20歳で結婚しても40歳ころの子供となります。つまり丹治=一として小説風に考えると、“明治維新後、士族としての禄のなくなった丹治は知人を頼り、軍人になろうと上京するがうまくいかず、警察で剣道を教えながらほそぼそと生活をしていた。最初の妻に先立たれて丹治は一と改名したが、縁があり商人のエマと結婚した。丹治40歳、エマ20歳の年の離れた夫婦であった。”(維新後に“一”といった漢字一文字に改名する例は多い、はやりか)。
ただ因伯人名録(昭和九年)をみると“武宮貞幹 砲術家、通称丹治 水戸福地某に砲術神発流を学ぶ。享年60余(観音院)”とあり、また鳥取県郷土史(1932)には「武宮貞幹の砲術 後戊辰役の際、自ら大砲隊を率い。大阪から海路江戸に至らんとし、暴風に遭ひ遂に機に後れ、戦役に画すこと能わずして帰国した。実に其の精錬卓絶の砲術を、(石篇に駮)雷銃雨の戦場に発揮することが出来なかったのは遺憾のことであった。年六十余で鳥取で歿した。墓は上町観音院にあって、門弟奮恩に感じ、碑を建て遺徳を記念して居る。」となっています。前記のライフ先生の文によれば、父親の亡くなったのは武宮隼人先生がオランダに留学する(1923)の前だったようで、そうであれば80歳以上は長生きしたことになります。
武宮雅楽允—武宮丹治—武宮一(はじめ)—武宮隼人のラインと武宮雅楽允—武宮丹治(一、はじめ)—武宮隼人のラインがありますが、祖父ではなく、父のことをはっきりと鉄砲隊長と友人に話していることからも、後者と考えてもいいのではないでしょうか、
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2 件のコメント:
武宮隼人さんに関する調査ありがとうございました。
武宮雷吾さんは、やはり武宮隼人さんのお兄さんでしたか。
それにしても、兄はフランチェスコ会、弟はイエズス会というのも、私はよくわかりませんが、当時の修道会では肉親の情も断ち切るという考え方で、兄弟は同じ会に属することはないかったのでしょうかね。
小生は戦後10年ごろの六甲入学生ですが、ライフ先生のおっしゃるような「旧制六甲中学校で剣道がどれほど重んじられていたかは、終戦後六甲中学校に入学した卒業生はよく覚えている.」という雰囲気は全く感じませんでした。武宮さんの講話でも剣道に関するような話もなく、もちろん剣道部もありませんでした(というか、戦後しばらくは剣道はGHQの指示で学校教育で禁じられており、その後辛うじて「竹刀競技」の名で復活しました)
もっとも、六甲1期生の某先生はすこぶる厳格情熱的な方でしたがその方は剣道有段者だったとか、かすかに聞いています。
その頃、武宮さんは武道に関するお話はなさいませんでしたが、卑怯なことは嫌いで、高校野球夏の予選で相手が盗塁したら「卑怯者!」と怒ったというのは有名な逸話です。
また、これは既によく知られていることかもしれませんが、時々講話で「お前たちの制服は、学習院などの制服ではなく、海軍士官の制服である」とおっしゃられました。
その心は「いつ死んでも悔いなきよう、常に死を想え」といことだったようです。
そのご薫陶むなしく、為すこともなく馬齢のみをかさねてきた自分が恥ずかしいです。
コメントありがとうございます。武宮先生の父親について、一(はじめ)か丹治か、わかりませんので、鳥取県立図書館に問い合わせ中です。また兄が初代校長をしていた札幌光星高校にも問い合わせしてみます。いずれにしても、武士、軍人、神父という3つの性格が混ぜ合った存在が、六甲学院建学のバックボーンとなっていたのは間違いなさそうで、そのため他の学校と違った校風が今でも残っているのでしょう。そうした意味でも、武宮校長の生い立ちについて、知ることは大事かと思います。もう少し、追悼本から引用していきます。
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