2016年7月1日金曜日

阿部はな 6

偕成伝道女学校

 The Missionary Link 122号(MARCH, 1881)の寄付の項目で“Syracuse,” Mary Fobes ” Band, per Mrs. L., S. Phillips, for “Hana Abe” Japan,52; legacy from Miss Mary Forbes, for a child , do   102 00”の記載がある(United Fellowshio for Christian Service, Women’s Union Missionary Society of America)。

 またThe Missionary Link17巻3号(MAY,1886)の寄付の項目でも“Syracuse “Mary Fobes’ Band,” per Miss L.S.Phillips, for Hana Abe (Mary Forbes) in Japan  58 00”の記載がある。

 阿部はなは1864-69年生まれで(外国旅券からは1866年生まれ?)、横浜共立女学校に1879年ころに入学、1886年ころに卒業し、1890年にアデリン女史、須藤かくと一緒に渡米し、1893年にシンシナティー女子医学校に入学し、卒業後は帰国して、横浜で医療活動をしていたが、失意のままアメリカ、ニューヨーク州のウエストデールで19112月に亡くなっている。アメリカの1910年のFederal Censusでは1873年生まれとなっているが、どうも歳をごまかして若く申請している。

 上記、Women’s Unionの報告書によれば、Phillipsという婦人から1881年にまず102ドルの寄付が、さらに1886年にも58ドルが、阿部はなに寄付されている。Censusに従えば、阿部はなが8歳と13歳の時となるが、推定生年月日では、13—17歳(外国旅券15歳)と17—22歳(20歳)の時に寄付を受けたことになる。当然、渡米前の横浜共立女学校に在校中のことである。1881年の102ドルは現在の価値では2500ドル、1886年の58ドルは1543ドルになるので、個人向けの寄付としては大きい額であろう。

 共立女学校での学費がドル、寄宿舎代費と合わせて月5ドルくらいだったことから(明治初期における信州上田のキリスト教の受容、宮下史明、2009,102ドルの寄付は2年間、58ドルは1年間の寄宿舎費、学費に相当する。

 横浜共立女学校は、大名の娘や福沢諭吉の娘など、かなり著名人、資産家の娘が入学しており、そうした子女には海外からの寄付は必要ない。一方、財政的に苦しくとも熱心に信仰をもつ生徒には学校で援助していたようで、阿部はなはついても、当初はかなり裕福な家の子女かと推定したが、こうした校費生の可能性もでてきた。

 明治20年(18864月に入学した和田邦子(「四十年の追憶」)は母校の六十年史の中で、当時の思い出を語っている。「さて此れからが問題です。是非連れて帰り度と先生方へ申し出ました所が先生方は御相談の結果私の病室の前へ椅子が四ツ並びました。痛い事は矢張痛いが如何なる事かと見ていますとダクタ、ケルシーに御花さん、ミス、クロスビーに多分湯浅先生、ミス、ピアソンに山口さん、ミセス、シャーランドに木脇先生か片桐先生か忘れましたが四人の先生に御通訳が付かれてこんな大病人を田舎へ連れて行くと困るだろうーーー」(横浜共立学園六十年史、昭和8年)。文中の御花さんとは阿部はなのことで、1886年当時、すでにケルシー女医について医療を学んでいたようだ。上記の阿部はなに対する個人寄付も宣教医として阿部はなを育てようとしたものだったかもしれない。実際に渡米するのはこれから4年後の1890年のことである。1910Censusでは阿部は1873年生まれとなっているが、13歳ではケルシー女医に付いて医学を勉強するにはいかにも幼く、1864-69年生まれとした場合の17—22歳(20歳)という方が妥当である。

 また一期生として入学した小島(北川)清子によれば、一期生は福澤諭吉の娘が三人、姪の福澤おきよ、井上馨の娘が二人、木脇お園、中尾さん(芸者さん)、お米さん、菱川お安さん(後に医者になった)、更木お梅さん、お金さん、おひささん、さらに学校が二百十二番に移ってからは、おりょうさん(後に栗岡氏に嫁す)、加藤おまささん(後に東京帝大の看護婦長となった)、桜井おちかさん(桜井女塾を開いた)、井深おせきさん(井深梶之助博士の夫人)、おときさん、お角さん(後医師になった)、お貞さん、おりょうさんなどであった。この二人は明治初年最初の女子海外留学生として米国に往った。上田てい子、吉松りょう子さんたちで渡米後間もなく帰朝して共立に入った。「凛として生きる:渡辺カネ・高田姉妹の生涯」によれば、初期の入学者の年齢は6歳から20歳までまちまちで、長野県権参事を父に持つ北川はる、きよ、才太の姉弟、皿城うめ、きん、ひさの三姉妹、木脇その、加藤まさ、菱川やす(アメリカに留学して医者になった)、水上せき、野州宇都宮玉生村の素封家の娘玉生れん、はつの姉妹、桑名藩主の姫君松平はつ(おつきの人と一緒に入学)、福澤諭吉の娘、姪。西田ケイ(岡見氏と結婚してアメリカに留学、医者となる)などがいた。


 菱川お安さんとは、このブログでも紹介したシカゴ女子医大に留学して医師になった菱川やすのことで、お角さんというのが、須藤かくのことである。菱川は明治四年8月(1871)に、須藤は山手212番地に移った明治五年10(1872)に共立女学校に入学したことになる。須藤は1861年1月生まれなので、11歳で入学した。松平はつは松平初子のことで、3歳の時に後に十三代桑名藩主となる松平定敬を婿養子として迎えた。阿部はなは、アメリカの篤志家からの寄付をもらっていたことから、校費生の可能性が高く、宣教医のケルシー女医について医療の勉強をしていたと推測できる。以前ブログで紹介した外国旅券下付表からは(下付月日:明治24年1月17日)、阿部はなの年齢は24.2、須藤かくは27.2となっているが、須藤かくは1861年生まれで、明治24年では30歳で一致しておらず、阿部はなについても生年月日を1866ないし1867年とは断定できない。

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