2018年8月3日金曜日

なぞの芳園4

大英博物館の芳園輝の絵

イタリアの骨董店のHPにある香川芳園
Ebayで売って香川芳園


 前回、香川芳園について少し解説した。その後、“香川芳園”でgoogle 検索するもののほとんどヒットせず、以前、ヤフーオークションに出ていた漫画のような屏風とこれも子供のような老人を描いた掛軸しかヒットしない。どちらも大英博物館にある芳園輝“の絵とは明らかに劣るし、どうも画風も異なる。

 その後、”Kagawa Hoen”と英語でgoogle検索すると、大英博物館にスケッチ帳がヒットし、これには動物や昆虫などがスケッチされている。寄贈者は日本美術のコレクターであるコリンウッド大尉(Colnigwood Ingram)である。彼は1957年の”Birds in Japanese art Country Life “誌の中に最初に香川芳園のことを論文に載せている。さらに検索するとイギリスの骨董屋に3つの芳園の作品があり、一つは西山芳園のもの、残り二つの掛軸、一つは冬の田に飛ぶ二羽の鷺、もう一つは城から出る大名行列を描いたもので、二つとも“芳園輝”の作品に画風は近い。またE-bayには芳園“印の雪山の庵に佇む仙人の図があった。印章は”比喜摩呂“これは香川芳園の号”蟾麿“と同じであり、香川芳園の作品と言えよう。

 前回示した屏風の絵からは香川芳園=芳園輝とは全く違うように思えたが、その後、海外にある他の香川芳園の作品を見ると少し香川芳園=芳園輝と言ってもよさそうな気もする。海外に多くの作品が流出し、日本にはあまり残っていないのも、逆にひとつの証拠かもしれない。芳園輝の欧米美術館に所蔵されている絵を見ると、多くの人や鳥が画面一杯に描かれている群集図であり、余白の美というものがあまりない。和室の床の間に飾るには、あまりかき込まれた絵、例えば富岡鉄斎の絵はある時期、うるさいと言われ敬遠された。床の間に飾る絵は茶室も含めてあまり騒がしいものは気が散ってよくない。その点では芳園輝の絵は河鍋暁斎と同じように床の間の絵としては日本人には馴染まず、むしろそうしたセンスとは全く関係のない欧米人の目に止まったのではないかと思える。一方、日本人からすれば西山芳園の絵の方が床の間の絵としては抑えがあり、人気があった。その後、日本では芳園と言えば西山芳園となり、いつの間にか外国人に人気のあった芳園輝は忘れられ、展示物のカタログにも西山芳園と記載されるようになったのだろう。現在、芳園輝、つまり香川芳園の作品は多くの欧米の美術館にあるが、香川芳園とされているものはひとつもない。さらに香川芳園の数点の作品には濱田氏の求めにより描いた”という説明文があるが、この濱田氏というのは外国人コレクターとの仲介者で、芳園は外国人の要望に沿った絵を描いた時期があったのかもしれない。ことに大英博物館、シンシナティー美術館の鳥の絵は何十匹の鳥が描かれ、半ばカタログ的、半ば見本帳のようなものとなっており、少し変な気がするが、これも外国人の要望であれば合点がいく。

 濱田氏というよくある姓から、この人が誰かというのはわからないが、それでも一人の候補者がいる。明治初期、神戸で美術商、輸出業で成功した濱田篤三郎である。彼は明治初期、イギリスのクリストファー・ドレッサーの日本訪問に自費で同行し、欧米との人脈とかれらの好みを知り、日本美術の輸出を行った、さらにすすみ、金工彫や木工の工場をつくり、西洋人好みの精緻な作品をここで製作して輸出した。この人なら外国人好みの題材、構成を画家に指示して輸出用の作品を作ったとも考えられる。

ある程度、香川芳園の資料が集まったら、日本美術の専門家に送って、香川芳園=芳園輝かどうか、意見を聞きたいと思う。同時にジャポニズムの盛り上がりにより明治期、海外の日本美術コレクターに愛された芳園輝の再評価になってほしいし、さらにいうなら美術館で西山芳園と香川芳園をきちんと分けて展示することにより故人も喜ぶことであろう。何十年もの間、間違った作者名として展示されていた絵が本来の作者名になることは美術館にとっても大事なことである。

日本国内では私が昔かった掛軸(偽物のようだが)以外、“芳園輝”、“芳園吉輝”の落款の作品はない。お持ちでいたら是非お知らせください。

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