2025年11月23日日曜日

佐藤慎一郎先生の50年前の教え

 



 弘前出身の拓殖大学、中国学者、佐藤慎一郎先生は、あの文化大革命、毛沢東礼讃の時代、1人、その本質を見抜いた人物である。彼ほど中国と中国人を愛した人物は少なく、何度も中国人に助けられて生き残った。さらに彼の誠実な人柄は多くの中国人に愛され、語学も堪能なことから、政府発表とは異なる情報源から現代中国の真実を見ようとした。以下の文は、ラクーンのブログに掲載されたもので、佐藤慎一郎先生の講義をテープにとり、それを文字起こしした。その内容はほぼ50年たった今でも新鮮である。高市首相をめぐる今日の日中関係も見ても、中国政府関係者はこの北京大学の先生、郭沫若と同じと考えればよく、中国共産党の体質というのは、あれだけ経済が発展しても全く変わっていないのに驚かされる。是非、全文を読んでほしい。

 佐藤慎一郎先生は、岸内閣から30年以上に渡って総理に報告したが、そのレポートは国政の参考になったと思われる。高市内閣では、松田康博東大教授(非常に優秀)のような軍事専門家もブレーンとして必要だが、中国の古典をきちんと学んだ佐藤慎一郎先生のような存在もほしいところである。できれば中国政府に対して、中国古典の的確な引用で返答してほしいところである。

 

ラクーンのブログ

http://racoon183.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/19766-3d82.html

 

さて、昨年、私は香港へ行きました。香港で北京の大学の先生と会いました。私がこの大学の先生に話を聞いて、三日間、ノートとりました。朝から始まって、お話をノートした。僕がこの大学教授に「先生、あんたは郭沫若をどう思いますか?」とこう聞いた。そしたら「あの人は素晴らしい学者です。毛主席も信頼しています。」とくる。「おーちょっと待て、あんたね、ここはね、北京じゃないよ。ここは北京じゃないの、あんたを誰も監視していないの。ここは自由社会という自分で信じたこと自分で考えたことそのまま言っていいんだよ。しゃべって大丈夫な自由社会ですよ」こう言った。

そしたらね、「すみません、ついその癖がでました。私たち北京におればね、なんか質問されれば、まわりをみて皆はどういうだろうということをまず考えて、それからその上を行くようなことを、嘘を言うんです。つい癖がでて、つまらんことを言ってすみませんでした」というから、「いや、誤る必要はないよ、あんたは郭沫若をどう思いますか?とあんたの本当の気持ち、僕は聞きたいんだ」といったら、彼いわく、「あのくらい悪い奴はおりません、あれは悪党です。あんなずるい奴おりません。風をみて舵を取るけしからん奴だ。あれくらいずるい奴ありません」。「どうずるいの?」と聞いたら、「いや、わたしたち北京の大学の先生たちは、文化革命始まる前までは、郭沫若という人を尊敬しておりました。ところが文化革命が始まったら、これは自分にとっても危ないなあと、この人頭が良いからすぐわかった。それで、まだ労働者や学校の紅衛兵が彼を呼びつけてもいないのに、彼自ら出て行って『私はいままで、何千何万の論文を書いたけれども、あんなものは論文に値しない、全部焼き払ってくれ。私は今日から毛主席の一年生となって毛沢東思想を勉強します』とこういった。そうして皆に謝って、まだ誰も彼をぶんなぐらないうちに自分からでんとひっくり返って『さあ、殴れ』とこう言った。『俺みたいな悪い奴、さあ殴ってくれ』とこう言った。このね、狡い、狡さにはかなわない、こうやって彼は助かった。このずるさにはね我々唖然とした。それ以来、みんなこの野郎と思って、誰も彼を尊敬するものはおりません」。「わかりました。あんたはそうおっしゃるが、あなたは去年二月まで、北京大学に長く働いていらっしゃいましたね。長く働いていられたのは、あの共産党の世界でどういう態度をもってあなたは生きてきたから、働くことができたのですか?郭沫若けしからんというのは、わかりました。それなら、あなたはどういう態度で生きてきましたか?」こう尋ねた。そうしたら、彼しばらく下を向いておった。「そう言われると恥ずかしいかぎりです。わたしたちはあの郭沫若に唾でもひっかけてやりたい気持ちですが、あの強力な共産党の中で生きるためには、郭沫若の生き方以外に生きる道はないということを教えられました。それで、私たちも郭沫若に学んで、あの狡さを見習って今日まで生きてまいりました。そうしなきゃあとても生きられませんでした。」と白状しました。

それで、私はその話が本当か、去年あった革命委員会の共産党員に聞いてみました。こういう話を聞いたけど、あなたはどう思うかと問いかけました。「いや佐藤さん、それは無理だよ。あの共産党の世界でね、そんな自分の意見なんか言って生きられるもんじゃない。一日だって命がない。正直に言ったら絶対駄目です。なぜなら、私も嘘八百でそういった芝居をやりながら生きてきましたから。とにかく、その場その場の芝居やるしか我々は生きる方法がないんです」とこう答えました。

良く聞く話ですが、日本人の旅行者が北京に行き郭沫若に会って、郭沫若はこんなことを言っていたというようなことを報告しています。誰も信用しない奴の話しを聞いてきて、この嘘八百の話をとくとくと日本で発表しております。それをまた読む奴が、さすがは偉い学者だと言って感心しているかどうかはわからんけれども、じっくり読んでいるというのが現状です。裏の裏を読まないと、何が本当で、何が嘘なのかわからないでしょう。そういう状態ですから、大陸におけるあらゆる現象はすべてその場その場の芝居であると私は判断しています。中国語にホンチャンソウシ(逢場作戯)という言葉があります。その場その場に合わせて芝居をやる、こういう言葉がありますが、これが現代の中国人の生き方であろうかと思います。本当のことを言えない、こういう世界であると私は信じております。


2025年11月19日水曜日

リタイヤとは 楽しい引きこもり、楽しい隠遁生活

 



今年の1220日の診療をもって診療所を閉院する。その後、1か月くらいで院内の備品を整理して完全引退となる。半年くらい前から古いカルテや模型などを業者で処分してもらっているが、個人情報、医療廃棄物などの規制があり、かなり費用がかかる。幸い、歯科用ユニット、レントゲンなどの大型機械は処分、廃棄するところも決まり、その他の機器類も寄贈先も決まった。院長室には、膨大な矯正歯科関係の本、雑誌、論文があり、この処分をしているが、最終的には全て処分することにした。この5月に一戸建てからマンションに引っ越してきたので、スペースが全く不足し、矯正歯科関係のものをおくところがないのが理由である。

 

古い論文や本を紐で縛り、処分すると、今まで歯学部に入学してからの50年以上の自分の歴史を全て捨てるような気がして寂しい思いがする。これからは先生と呼ばれることもなくなるし、職業欄は“歯科医”ではなく、“無職”になるのだろうという思いもある。歯科医というだけで世間的には得をしたことも多かったが、そうした特権もなくなる。ただ矯正歯科という非常に期間のかかる治療を行う職業では、辞める時を自分で決めなくては、患者さんに大きな迷惑をかけるため仕方ない。友人、知人、あるいは患者さんからもどうして辞めるのかと聞かれることが多く、さらに病気説が流れたりもする。

 

 

矯正歯科の場合、通常のマルチブラケット装置でも2年間の治療が必要だし、子供の場合は、一期治療、二期治療も含めると10年以上かかることも珍しくない。そのため閉院にあたり、子供の治療は5、6年前から新規患者の受け入れはやめ、2年前から全ての新規患者の受け入れをやめた。一応、通常の患者の動的治療(マルチブラケット装置による治療)は全て終了できそうだが、保定終了までは診ることはできず、近くの先生に紹介している。唯一失敗したのは、外科的矯正の患者で、術前矯正が終了して口腔外科へ入院予約をしても、すぐに手術ができず、長い場合、半年以上のタイムラグが起こる。そのため数人の患者については、術後矯正が終了できす、動的治療中の状態で転医することになる。申し訳なく思っている。

 

歯科医の引退というと、通常の退職のない職業、個人商店、飲食店などと同じで、健康上あるいは経営上の問題から辞める。うちの親父は85歳くらいまで歯科医をしていたが、最後の方は1日の患者数が4、5名となる、ワンオペで診療していたが赤字となったので、やめて引退した。従業員が居れば、もっと赤字になる時期は早い。

 

先日も、友人でリタイアについて議論した。健康で、充実した老後を送りたいという声が多く、診療所を小さくして自分の理想の歯科診療を行いたいという友人もいたが、それはリタイヤしないということだとからかわれていた。他には、旅行に行ったり、ボランティア活動をしたいと友人もいたが、私はリタイヤとは、何もしないことだと思う。もっというと世間からは忘れられた存在になり、葬式には家族と少数の友人しか来ない存在になることかと思う。不思議なことに現役時代はあれほど、いろんな場所で頻回にあった先輩歯科医に、リタイア後は全く会わなくなる。リタイヤしたから家にずっといるわけではないと思うが、全く会わなくなる。リタイヤとはこういうものかもしれない。忘れられていく存在なのだろう。

 

アメリカ人に聞くと、リタイヤして家でビールを飲んで、好きな音楽や映画を見たり、プレステでゲームをしたり、釣りをしたり、何もしないことがリタイヤだという。朝起きる時間も決まっておらず、寝るのもいつでも良い、おそらく幼稚園に入学した4歳くらいから、引退するまで規則的な生活をしてきたので、全く制約のない生活をするのは初めてと言っても良い。参考になるのは、引きこもりの人たちの生活である。引きこもりの楽しい点についてAIで調べると、「映画、ゲーム、読書、アニメなどの家で完結する趣味や、オンラインゲーム、YouTubeSNSなどのインターネットを介した活動、創作・学習としては料理、お菓子作り、塗り絵、立体パズル、語学学習、自宅での筋トレが挙げられ、さらに外出する際の楽しみとしては、自然に触れられる公園や河川敷、静かに過ごせる図書館や公民館、気軽に立ち寄れるショッピングモール、ネットカフェ、スポッチャのような複合型レジャー施設を利用する。」としている。これは参考になる。このうちあまりしたことないのが、ゲーム、料理、お菓子作り、塗り絵、立体パズル、筋トレなどで、ネットカフェやスポチャなども行ったことがない。シニア年間パスポートもあるらしい。ただ年寄りができそうなのはカラオケ、ダーツ、卓球、ビリヤード、ゴルフくらいか。孫と行くのはいいところかもしれない。また常連の飲み屋というのもないので、これを開拓する楽しみもあろう。

 

ここまで書いていて、これはひょっとすると中国の文人の理想、隠遁生活のことかもしれない。リタイアとは、よく言えば隠遁生活かもしれない


2025年11月17日月曜日

核兵器を持つ2つの独裁共産主義国家に隣接する日本と韓国

 


世界で最初の共産主義国は、1917年に政権をとったソビエトである。そして1991年に崩壊した。それから34年経ち、現在、共産主義国、社会主義国は、中国、北朝鮮、ベトナム、ラオス、キューバの5カ国だけである。世界195カ国のうちの5つである。残りは民主主義国家というとそうでもなく、実際は権威主義国家が最も多い。権威主義国家というのは、一応は民主主義を装った独裁主義国で、これが実際には一番多い。共産主義国家も広い意味ではこの権威主義国家に該当するし、イランやアフガニスタンのような宗教指導者が全てを決めたり、サウジアラビアのような国王に権力が集中しているところもあり、アメリカが世界に宣伝する民主主義国は必ずしも世界の標準ではない。

 

それでも欧米を主体とする先進国のほとんどは民主主義国で、後進国から先進国に発展するためには強い権力をもつ独裁政府のほうが効率良く、台湾も選挙による総統選が始まったのはここ30年くらいで、それまでは国民党、総統による権威主義国家により国力が発展した。同様に韓国でも金大中が当選したのが1997年、この頃からようやく民主化が進んだ。ある程度、国力が発展してから、民衆による突き上げがあり、権威主義国から民主主義国に移行する流れとなる。共産主義、社会主義国家では、体制を完全に転覆しないと、民主主義国家に移行するのは難しい。

 

歴史上、もしといえることがあるとすれば、1936年の西安事件を挙げたい。西安事件は張学良が中国国民政府の蒋介石を拉致して、国共合作を成立した事件である。それまで国民党との抗争により共産党は勢力を大幅に弱められていて、この事件をきっかけに勢力を回復し、その後の政権奪回につながっていった。むしろこの前に、日本と国民党が協力して徹底的に共産党を壊滅させておれば、のちの中華人民共和国は成立しなかったであろう。少なくとも日本は、満州国成立で矛を収めるべきであり、日中戦争を起こす必要性は全くなかった。もちろん、中国北部、朝鮮を占拠する日本帝国は、独立運動に伴い、朝鮮は独立し、満州は国民党中国に吸収されていったと思うが、アメリカとの戦争もなかったであろう。その場合は、日本は敗戦することもなく、日本の周囲は、共産主義でない中国(台湾を含む)、朝鮮となり、さらに広げてタイ、ベトナムなどに囲まれた民主主義国家群なった可能性がある。

 

現状では、東アジアは、共産主義国の中国、北朝鮮と権威主義国のロシアがあるのに対して、民主主義国は日本、韓国、台湾という関係となる。中国と北朝鮮を民主主義国にさせることで、これが日米韓台の究極の目標となる。特に今は、この共産主義国の中国と北朝鮮が権威主義国の色彩を強くしている。つまり中国では習近平、北朝鮮では金正恩の独裁制で、なおかつ習近平は72歳、金正恩は41歳と若く、現状の政治体制はまだまだ続きそうである。共産主義と独裁制が重なると、ろくなことはなく、毛沢東は朝鮮戦争、大躍進、文化大革命で数千万人の人民を殺し、スターリンは大粛清、強制労働収容所、ウクライナ大飢饉で数百万人の人民を殺し、カンボジアのポル・ポトは150-120万人、人口の1/4を殺した。現在、欧米の主要国、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカなどでは共産党はほぼなく、ヨーロッパでいえばソ連の崩壊により、周囲に共産主義国はなくなった。アメリカは近くに共産主義国キューバがあるが、それほど武力的に恐れる国でもなく、日本を取り巻く環境、中国、北朝鮮という二つの共産主義国、独裁制の核兵器を持つ国に囲まれた、は理解しにくい。さらに驚くことは、この状況で平和、外交で解決できると信じているマスコミ、左翼の人が多い。

 

以前のブログで通常兵器による台湾侵攻は不可能と書いたが、その後、最も費用がかからず、兵士の損失の少ない中国軍による台湾侵攻計画があるのを知った。台湾近辺、日本の南西諸島に戦術核兵器を打ち込み、次は台北、東京に打ち込むと脅し、内部から屈服させる方法で蓋然性は一番高い。アメリカ軍は、直接、在日米軍基地が攻撃されない限り、核兵器による自動的な中国への全面反撃はない。台湾近辺の海に中距離核ミサイルを打ち込む、本土の人口の少ない地域に打ち込む、自衛隊の派遣されている南西諸島の基地に打ち込む、犠牲者の少ない場所を選んで、戦術核ミサイルで脅しをかける。この方法であれば、アメリカ軍による報復核ミサイル攻撃は避けられ、おそらく即刻の自衛隊の全面出動、反撃はできず、国連で抗議し、中国への経済包囲網を築くくらいしか対抗方法はない。1995年の第三次台湾海峡ミサイル危機では、アメリカは2つの強力な空母戦闘群を派遣し、事態を収拾したが、この屈辱がその後の中国海軍の増強に結びついた。現在、中国も3隻の空母を保有し、沿岸部には多数の中距離ミサイルを配備し、1995年のように台湾海峡にアメリカ軍は出動しにくい。どのように対抗するか、核三原則の見直しもこの文脈に沿うものである。

 

 


2025年11月12日水曜日

日本に革命をと言っていた人は、今

 


私が東北大学に入学したのが1975年で、その頃はまだ学園闘争の末期であったが、活発な活動が行われ、教室がロックアウトされ、授業がなくなったり、教授に三角帽を被せて自己批判はさせたり、図書館前ではヘルメット、角棒でデモの練習をしていたりしていた。朝から教養部では、全学連の連中が“革命”、“反帝国主義”、などのオドオドロしい言葉が拡声器で流され、ビラを配る。当時、すでにほとんどの学生は、こうした学生運動に関心はなく、むしろ運動に夢中になっている連中を馬鹿にしていた。個人的に、そんなに革命が好きなら、大学など辞めて、中国、ソ連、北朝鮮など社会主義国へ行けばと思っていた。

 

若い頃の議論はよほど危険であり、革命と叫ぶなら、結局は革命に参加しろという結論になり、さらに理論を進めると爆弾を作って国会議事堂を爆破しろという極論までいってしまう。萩の松下村塾の吉田松陰はまさしくそうした人物で、生徒に狂えと火をつけ、生徒は師匠の言葉に追い詰められ、死んでいく。この歳になると、もし人から革命、革命というなら、お前は革命に参加しないのかと追求されても、あくまで言葉だけだと開き直れるが、若い時はそうできない。太平洋戦争末期、国を愛するなら特攻に参加しろという論理も、同じようなものである。

 

個人的には当時、学生運動に積極的に参加していた人、今は75歳以上になると思うが、今はどういった考えになっているのかが非常に興味を持つ。藤田省三、「転向の思想史的研究」は、戦前の共産党員がいかに転向するかという主題で、内容は忘れたが、意外に共産主義から真逆の右翼思想に向かい、積極的に軍部に協力する人が多いことに驚いた記憶がある。1960年、1970年代に安保闘争、学生闘争にどっぷり浸かった人々は、今どうしているのか。

 

そうした疑問に答えてくれる書が、岩波現代文庫の「原点 The Origin 戦争を描く、人間を描く」(安彦良和、斎藤光政、2025)である。著者の安彦はガンダムで有名なアニメーター、漫画家で、弘前大学在校時に学生運動にはまり、最終的には退学処分された。1947年生まれ、現在、77歳で、学生運動真っ盛りの世代である。この本では当時の学生運動の仲間との対談など、著作物ではなく、対談形式のため、本音が聞けて面白い。結論から言うと、その後の生き方は人それぞれであるが、安彦については、遠い過去の若気の至りという境地になっているように思える。それほど懐かしい思い出でもなく、今に思えば日本に革命と言っても誰もついてこなかったという反省もあるし、また心理的に深く傷ついた記憶と言うものでもない。今は皆、普通のおじさんになっているだけである。ただ一部の仲間は、その後、武力闘争、パレスチナ解放人民戦線へと革命路線を貫く人もいる。多くの人は当時のことについて沈黙している。

 

こうした感覚は、うちの親父の世代でも見られるもので、大正生まれの世代の多くは、否応なく戦争に参加し、多くの仲間が亡くなった。子供の頃に会った父の知人を思い出しても、特攻隊の生き残り、ラバウル航空隊の飛行士、ニューギニア、インパール作戦の生き残り、過酷な戦争経験をしているが、皆、普通のおじさんで、戦争中のことは戦友会以外で語ることはない。親父の場合、中国北部に3.5年間、その後、ソ連の捕虜収容所に3年間いた。この6年間のことは、断片的に聞いたが、多くは語らなかった。同じように学生運動をしていた人々も、すでに50年以上前のこともあって、ほとんど語ることはない。

 

私の場合、高校生の頃に毛沢東の文化大革命に憧れたこともあったが、その後、徐々にその真実が明らかになり、そして大学2年生の頃に、親に無理を言って外国人に解放されたばかりの中国に旅行に行った。そこには無惨な文化大革命の傷跡が残り、案内のガイド、ほとんどが文化大革命中は下牧、の口からは文化大革命の悲劇を聞いた。そして京都大学の竹内実教授、朝日新聞、左翼を恨んだ。彼らのような知識人が、あれほど礼賛していた文化大革命、そして造反有理というスローガンのイカサマを思い知った。ただの毛沢東の権力闘争の手段であり、若者の暴力だけであった。広州、北京の博物館の掛け軸は破られ、飾られていた。現在、中国はいまだに大躍進と文化大革命の犠牲者、おそらく数千万人を認めていないし、朝日新聞、左翼もそれには触れない。一方、テルアビブ空港乱射事件で26名を殺した岡本公三もまだ生きているし、いまだに支援者がいるという。12名の仲間を殺した連合赤軍メンバーも服役、逃亡している。学生運動そのものは、誰かに多大な迷惑をかけてなければ、忘れてもいいものかもしれないが、犠牲者、殺人が出たとなると、彼らこそ、公の場に出て、総括と自己批判をすべきであろう。一種のカルト、宗教のようなもので、テロ、戦争に向かう同じ方向性を持つものなので、藤田省三、「転向の思想史的研究」のような研究も必要かもしれない。安保闘争、学園闘争の当事者もすでに高齢となっており、その声を聞くのも今しかなくなってきている。


「原点 The Origin 戦争を描く、人間を描く」(安彦良和、斎藤光政、2025)はお薦めである。




2025年11月8日土曜日

農家がもっと豊かに

 



今年も、米の値段が高く、困った何とかしろというニュースが連日流れている。昨年は、小泉農林水産大臣が貯蔵している古米を放出し、米の市場価格を下げたが、現在の鈴木農林水産大臣は米の増産はしないし、米の値段は市場価格に任せると言っている。そのためか、今年の新米価格はかなり高くなっていて5kgの米で4500円くらいになっていて、10年前が1800円くらいだったことを考えると2から3倍近く上がっていることになる。

 

大正7年の米騒動を調べると、72日の一升34銭だったものが、89日に60銭とわずか1ヶ月で2倍になったことに起因する。他の時期を調べると、一升の値段は昭和29年が108円に対して、昭和50年では450円で4倍くらいになっているが、会社員の年収でいうと昭和29年が20.5万円であったのが、昭和50年では203万円とほぼ10倍になっていて、収入に占める米の価格はかなり低くなっている。一升は約1.5kgで、5kgの米の値段は、昭和29年で360円、昭和50年で1500円となる。令和5年の会社員の平均年収は545万円なので、それで換算すると昭和29年では5kg9570円、昭和50年では4027円となる。2年前の令和5年の5kgの米価格は全国平均で2100円くらい、月収に対する米価格は、昭和29年で2.1%、昭和50年で0.89%、そして令和5年では0.46%と下がり続けていた。それがようやく今年、0.99%くらいとなった。

 

昭和29年に比べても、あるいは昭和50年に比べても、子供の数は減り、一家での米の消費量はかなり減っており、今年、米価格が上がったとはいえ、家計に占める米代はそれほど多くなったとは思えない。大正7年のような米騒動を起こすような問題となっていない。小泉前農林水産大臣が古米を放出したが、それほど緊急性、切迫感があったのか。一般の家庭では米価格が上がったとしてもそれほど深刻なものではなかったと思う。

 

一方、農家にとっては、米価格の上昇は、非常に明るいもので、若い農業従事者にすれば、ようやく米農家にも何とか農家でもやっていけるという希望が出てきた。実際、青森、弘前市では、税理士に聞くと、農家では、りんご価格が上がり、米価格も上がり、少し景気が良くなってきたという。これまで農家というと、収入が少ない割に過酷な労働で、若者からは見向きもされず、農業従事者の高齢化が深刻であった。このままでは青森のような農業国では、後継がいなくて、どんどん衰退していく。こうした傾向を打破するには、まず農家の収入を上げるのに尽きる。ましてや安全な食品を自給できる環境を作るためには、若い世代がどんどん農業に参入するような魅了ある職業にならなくてはいけない。そのためには農作物の価格を上げる必要も出てくる。

 

物価高騰を防ぐためには、食品価格を抑える必要があるのはよくわかるが、地方の活性化、あるいは国産の安全な食品の自給には、農作物の価格の上昇は、認めてほしい。鈴木大臣の言うように、米価格を下げるよりは、貧困層にはお米券の配給あるいは、外米の輸入を進めるべきで、都市部の一般家庭には申し訳ないが、日本の農家を応援する意味でも、少しくらいの米価格の上昇には辛抱してほしい。一個500円のケーキを平気で買うのに、5kgの米、うちでは老夫婦1ヶ月分が、4500円は高くはないと思うのだが。

 

専従で米を作っていて、その売却益だけで、子供2名を大学に入れるくらいの収入にならないと、日本の米は、あるいは地方は消滅していくかもしれない。そのことをよく理解してほしいし、政府、マスコミもきちんと説明すべきであろう。教育ととともに、農業は国の基礎である。


2025年11月6日木曜日

シンシナティからのお客さん

1/24のフィギュアです


先日まで、アメリカのシンシナティーから2人の友人がやってきて、3日間、一緒に弘前とその周辺を案内した。東京、大阪、奈良、京都、出雲を回り、最後に弘前にきたという。日本でも弘前が最も好きで、これまで2回きてくれた。3回目の弘前は、秋のいい時期だったので、紅葉やりんごを見てもらい、満足して帰国した。

 

私の英語は、それはひどいもので、ジャパニーズ英語の典型で、ほぼ単語を並べただけで、文法的にはメチャクチャである。15年前に、友人の歯科医から英語の勉強会をしているので参加しないかと言われ、それから毎週、歯科医四人と英語の先生1名で、お酒を飲みながら、主として時事問題について喋る。とにかく無茶苦茶でもいいので、喋り、聞く。予習、復習は一切しないので、全く上達しないが、度胸だけはついた。こうしたこともあり、弘前や旅行先で外人に会うとできるだけ喋るようにしているが、短い会話であれば、特に問題はなかった。

 

ただ今回、3日間にわたって一緒にいたが、なかなか慣れなかった。1人は中国系アメリカ人Hさんで、50年近くアメリカにいて社会的地位も高いインテリであるが、ネイティブではない。もう1人はシカゴ生まれのNさんで、オハイオ州に50年以上いるネイティブである。Hさんの言っていることは100%理解できるし、こちらの言っていることもほぼわかっている。問題はNさんで、こちらが喋っていることがわからず、たまらなくHさんが通訳している。こちらもNさんの言っていることの半分もわからず、最初の1日目はお互いわからないだらけの状態であった。ところが2日目からはお互い少しわかるようになり、3日目には逆にこちらが喋っている複雑な話も、NさんがHさんにわかりやすく説明するまでになった。

 

多分、相手の発音、癖になれるのに3日かかったということなのだろう。そういえば、4、5年前に家の近くの道で道に迷っているイタリア人夫婦を旅館まで案内したことがあったが、この夫婦の英語がひどいイタリア訛りで最初は全くわからなかった。それでも英語を母国語としない外国人の英語は簡単で、ゆっくりなので何とかわかるが、ネイティブになると、そうした配慮をしない人もいる。

 

Nさんにすれば、人生のほとんどをオハイオで生きてきて、日本人と喋ることもなかったのだろう。あるYouTubeで、イギリス人がアメリカ人ウエイターにいくらWaterと発音しても全く理解されない動画があった。同じ英語圏でも通じないことがあるんだなあと思ったが、よく考えれば、津軽弁で喋るとほとんどの人がわからないように、同じアメリカでも地域で方言があり、わからないこともあるんだろう。さらにいうと、私の場合、英語でも鼻にかかる発音をされるとわかりにくいし、アメリカ人よりイギリス人の方がわかりやすい。一番わかりやすのが、日本人の英語で、これは経験の違いなのだろう。

 

早速、先週の英語の勉強会の時に先生に尋ねてみると、これはネイティブでも同じことで、同じアメリカ人でも、今は中国系、スパニッシュなどいろんな人種がいるので、お互い話言葉に慣れるまでしばらくかかるという。とりわけ同じ州にずっといて、他の州や海外に行ったこともない人は、特に外国訛りがあるとわからないという。また私が卒業した六甲学院は、イエズス会系の学校で、フランシスコ・ザビエルが創始者である。これを説明する際にザビエルの英語名、Xavierを発音すると、シンシナティの2人はすぐにわかったが、ミネソタ出身の私の英語の先生は、このXavierという言葉が全くわからなかった。シンシナティーはカソリックの教会が多く、イエズス会系の高校や、さらにXavier Universityという大学もある。Nさんの旦那さんはイエズス会系の高校を卒業していて、オハイオ州ではザビエルという名は誰もが知る。

 

さらに今回、夕食は日本料理とイタリア料理のコースを予約した。シンシナティーは200万人をこえる大都市で日本料理店もあるが、基本的には内陸の州で生魚を食べることはない。また海藻、きのこ、食用菊、クラゲ、ウニ、豆腐など、あまり母国では食べる機会もない。日本料理は、彼らにとってよくわからない食品を使った料理で、また昆布、カツオ、などでとる出汁もついていけないのかもしれない。次の日に食べたイタリア料理とはえらい違いであり、日本料理の懐石コースはアメリカ人にはかなり敷居は高いようだ。一方、イタリア、フランスあるいは中華料理などは日頃食べ慣れているので、アメリカでも出身地によっては、日本に来たんだから日本料理としないほうがいいのかもしれない。アメリカ、オハイオ州では、買い物は週に一回か二回、大きなスーパマーケットで行くので、魚はほとんど冷凍物、野菜や果物も新鮮なものが少なく、日本の野菜や果物は美味しいと言っていた。カボチャなどあんな甘いパンプキンはアメリカにはなく、初めてスープで食べたと言っていた。

 

今回は、一般的な観光地以外にも、虹のマートという地元市場や、パン屋、あるいは雑貨店なども回った。かなり興味を持ったようで、とりわけ女の人だったので、雑貨店は結局2回も行って、そこでお土産を買っていた。また近所の洋服屋の店頭に5足、550円で靴下が売っており、安い、クリスマスプレゼントにすると和柄の靴下を買っていた。外国人にはなかなか入りにくい、地方の雑貨店や普通の店も十分に観光地になると思った。そういえば、以前、土手町で道を迷っていたミラノ出身の女性に声をかけると、弘前の雑貨店を回っていると言って、英語のマップを見せてもらうと、たくさんの小さな雑貨店に丸印がついていた。


 

2025年11月3日月曜日

日本の原子力潜水艦

 



ようやく高市政権となり、日本でも原子力潜水艦保有の機運が生まれそうになってきた。自衛隊にとって、特に旧日本帝国海軍の歴史をもつ海上自衛隊にとって、空母と原子力潜水艦の保有は悲願であった。空母に関しては、いずも型護衛艦、いずもとかがで概ね達成でき、さらに大型の空母や強襲揚陸艦の計画もあるが、原子力潜水艦については、核アレルギーが強く、漫画(沈黙の艦隊)で取り上げられるだけであった。

 

ただ最近とみに著しい海軍の増強を行っている中国に対抗するためには、潜水艦とりわけ原子力潜水艦が最も中国にとって脅威となり、台湾侵攻などを含めた中国への抑止力となる。中国海軍は、近代的という観点からは、その歴史は浅く、せいぜい30年くらいしかないし、近代的な海戦経験もない。大型空母などの設備は近年、すごい勢いで充実されてきたが、空母本体には防御機能はなく、それを取り巻く、駆逐艦、潜水艦などセットとして、空母打撃群として機能する。とりわけ最大の脅威は、水中からの攻撃、潜水艦による攻撃で、さしもの空母も潜水艦による一発の魚雷で、航行不能になる可能性もあり、第一次世界大戦以降、その構図は変わっていない。これまで中国海軍はこうした実践経験がないため、もし中国の空母打撃群がアメリカの原子力潜水艦で攻撃されたら、ひとたまりもないと言われている。

 

最も中国が恐れる兵器が、潜水艦なのである。ましてや日本は四方を海で囲まれていおり、日本を侵略するためには、必ず、海上輸送が必要となってくる。武器、兵員全て海上輸送で運ばれ、それが潜水艦で狙われるとなると、これほど怖いことはない。まして中国海軍は、これまで中国沿海の海軍であったため、広い海域での海戦経験は全くなく、とてもではないが、アメリカ海軍、潜水艦の攻撃に対抗できない。ただ中国周辺に、常時、多くのアメリカ原子力潜水艦を回遊することはできず、もし日本が原子力潜水艦を保有すると、計画されているオーストラリアの原子力潜水艦とともに、中国周辺海域にかなり多数の潜水艦を投入でき、台湾あるいは周辺国への中国による侵攻抑止となる。

 

ただ日本で、これから原子力船を作るとなると、その推進用の小型原子炉を開発しなくてはいけない。日本では原子力船むつの失敗以来、原子力船の計画、設計はなく、建造には安全性も含めて相当な開発費と期間がかかる。むしろ、アメリカ海軍の原子力潜水艦バージニア型で使われているS9Gという小型原子炉をそのまま輸入して、日本独自の船体に搭載すれば良い。実際、海上自衛隊の護衛艦のタービンエンジンはGE社のものを使っている。さらに最新のアメリカの原子力潜水艦は、原子炉は主として電力供給に使われ、推進装置は電気推進となっている。元々海上自衛隊のたいげい型潜水艦もリチウム電池による電気推進なので、この電気供給をディーデルエンジンから原子炉に変える違いとなるだけである。かなり経費や開発期間の短縮が見込まれる。さらにいうなら、アメリカではもはや造船技術がかなり後退しており、造船技術の両国の移転ケースとなりうる。実際、オーストラリア向けの原潜の建造もかなり遅れそうで、アメリカの造船能力が厳しい状況となっており、日本での建造が現実的となる。また日本の潜水艦造船技術、とりわけ船体を覆う船殻構造、金属に優れており、最大深度は1000mに達するといわれ、さらにかなり深い位置からの魚雷攻撃も可能であることから、理論上は相手の潜れない、攻撃できない深さからの攻撃が可能となる。さらにソナー能力や音声解析などを含めて探知能力は元から優れているため、日本が原子力潜水艦を持つ意味は非常に大きい。アメリカ側でも、日本と共同開発は今後の新型原子力潜水艦建造にとってメリットとなる。

 

防衛装備というのは、相手が最も嫌がる設備を揃えるのが、抑止という点では最も大事なことである。台湾有事を考えても、中国本土から兵員、武器の海上輸送がキイとなるため、この安全が確保されなければ迂闊に台湾を攻撃できない。その場合、最も脅威になるのは、台湾が潜水艦を持つことで、2023年に国産の潜水艦を進水させている。今後も増産され、8隻体制となる。ただ台湾の地政学的欠点として西方海域は大陸棚の浅い海で、潜水艦の活動がしにくい場所であり、両国が機雷を設置して港の封鎖を狙っていくであろう。中国海軍の欠点としては、対機雷戦に弱いとされており、近年は急速に能力が高まっているとはいえ、実践経験は少なく、台湾による機雷敷設は脅威となる。逆に日本の対機雷戦の技術は世界でもトップであり、台湾有事でアメリカ軍が参戦した場合、日本の役割は基地、燃料提供などの後方支援と、港湾の機雷除去、潜水艦によるパトロールなどとなろう。すでに日本の通常動力型のたいげい型の潜水艦は、フランスのリュビ級原子力潜水艦より大きく、アメリカと十分、小型原子炉、周辺設備について協議すれば、日本独自の原子力潜水艦は十分に建造可能と思う。原子力というと日本ではタブーとなっているが、原爆を開発するわけではないし、すでに53年前に原子力船むつを竣工させている。さらに三菱重工では1m*2mという小型マイクロ炉とリチウム電池のハイブリットシステムを開発しており、潜水艦にも搭載可能という。

 

軍事費の拡張というのは中国、アメリカ、日本にとっても無駄なことであり、今日のアジアでの緊張関係を招いているのは中国であるのは間違いない。旧ソ連がアメリカに対抗しようとする海軍増強を諦めたように、同じ大陸国家の中国が今更、海洋国家になれるはずはなく、4隻目の(原子力?)空母は諦めて欲しいところである。アメリカのような11隻の空母と空母群を持つのは、あまりにも海軍国として経験がなさすぎて、将来アメリカだけでなく、日本、オーストラリア、韓国が原子力潜水艦を保有するような状況には対応できないだろう。







2025年11月1日土曜日

来年度NHK朝ドラ 風、薫る 鈴木雅について 4


 



これまで3回ほど、来年度NHKの朝ドラの主人公のモデル、鈴木雅の出身校について書いた。鈴木雅については、横浜のフェリス女学院を卒業したという資料が多いが、これは間違いで共立女学校(現在の横浜共立学園)を修了しているのではないかと、いろいろな文献を引用して説明してきた。

 

鈴木雅フェリス女学院を卒業したという証拠は、フェリス側の資料には存在せず、学校の記念誌も含めて公式の場ではそうしたことを発言しておらず、高橋政子著、「日本近代看護の夜明け」の中にある鈴木雅の孫の証言によるものしかない。さらに古い資料を探すと、明治30年発行、福良虎雄編「女子の職業 新撰百種:第三編」に“尚、生徒の取締として鈴木マサ子と云える婦人を頼みたり。此のマサ子は横濱フェリス女学校の卒業生にて嘗て某陸軍大佐の細君となり、英語等にも熟達せる故、彼のウェッチ嬢の通便として雇われたるがーー”となっており、また医学史研究会による「医学史研究」(1976)では“彼女(鈴木まさ)は一期生の中では一番年長で、かつて横浜のフェリス女学校を卒業して、――”となっていて、他にもフェリス卒業としている論文は多いが、根拠は示されていない。

 

一方、共立学園では、60周年誌では同級生の寄稿文の中で、一期生の中に加藤おまさ(鈴木雅)の名前が出ており、150周年誌でも同校を修了したとしていて、学校の公式資料でも鈴木雅は同校を修了したとしている。

 

こうした中、今回、ほぼ決定的な資料が見つかったので報告する。「明治百話」という本で、篠田鉱造というジャーナリストが昭和6年に出版した。名著として今でも岩波文庫に入っていて読むことができる。当時の人から明治の思い出話を集めたもので、現在でも資料としても十分に使えるものである。ただ欠点としては、誰が話したかを明示していないことが挙げられる。今回、見つけたものは文面を読むと、明らかに今回、NHKの朝ドラのもう1人の主人公、大関和の話とわかる。彼女は昭和7年に亡くなったので、著者は直接、大関から話を聞いたのは間違いない。大関の話では、鈴木雅は横浜二百十二番館の女学校を卒業したと断言している。横浜二百十二番館とは横浜共立女学校のことである。鈴木自身、自分が行っていた学校を“共立女学校”とは人には言わず、“横浜二百十二番館の学校”と言っていたのかもしれない。普通、二百十二番館の学校と言っても、すぐに横浜共立女学校を思いつくことはなく、孫、親類もほぼ隣にあるフェリス女学院のことだと勘違いしたのだろう。以下、省略して一部引用する。


全文については、国立国会図書館デジタルコレクションで見られるので確認して欲しい。


 

日本看護婦の嚆矢



明治二十年十一月英国セントマス病院のナイチンゲル看護婦学校卒業の、ミス・アグネス・ヴィッチ女史が帝大第一病院で、看護婦学を教授すると聞き、同院の三宅秀先生におすがりして、大学の見習い看護婦に採用していただき、この聴講生の員数に加わりました。鈴木雅子さんが通訳でした。月謝が五十銭。この鈴木雅子さんと申すのは、陸軍中佐の未亡人で、横浜二百十二番館の女学校を卒業した、英語の達者な女性でした。 略

私の役目はお手術後のお手当です。幸い夫人のひとかたならぬ御寵愛をこうもり、大関大関と仰つけられ、実に身に余る面目を施し、神様の御加護の厚きに感謝しました。

 


こうして細かい誤りをしつこく探求するのは、故人にとって自分の出た学校を間違って伝えられることは嫌であろうと思うし、横浜共立女学校の奇跡のクラスと呼んでもよい一期生の影響を鈴木雅は強く受けていると考えるからである。このクラスには、津田梅子と一緒に日本で始めた海外留学をした上田悌子、吉益亮子がいた。さらにその後、アメリカに留学して女医となった、須藤かく、菱川やす、西田けい(岡見京)の3名がいる。そして櫻井女塾を開設した櫻井ちかや、慈善運動に活躍した二宮わか、渡辺かねもいて、本当に奇跡のようなクラスであった。ここで想像して欲しいのは、今でも自分の学校、クラスメートの2名がアメリカ帰り、そして3名がアメリカで医者になると言って留学し、さらに学校を作った同級生もいるという状況である。岡見は日本では五番目、菱川は八番目、須藤は五十五番目と、日本でもごくわずかな女医のうち、このクラスだけで三人もいるのもすごいし、日本女性で最初にアメリカで留学、生活した五人のうち2名が同じクラスでいるのも、若い頃から海外の話を聞いたのは違いない。

 

日本で始めて看護師という礎を築いた鈴木雅を語る上では、どうしても雅が受けた教育環境を知っておかなければ理解しにくい。怖いと思う深い崖でも、皆が次々と飛び越えるのを見ると、勇気が出る。雅にしても夫の陸軍少佐、鈴木良光の死後、確かに生活は苦しかったであろうが、階級からそこそこの軍人恩給が出ていたはずで、生活面だけから子供二人がいるにも関わらず、28(1886)から看護婦養成所に入学する動機は薄い。岡見がアメリカに行き、女子医大に入学したのが1885年、同じく菱川安が留学したのが1885年、須藤かくと阿部はなが渡米したのが1890年、こうした同級生の動きも影響したのであろうか。