2008年6月19日木曜日

山田兄弟10


写真は山田純三郎の友人で上海で暗殺された陳其美である。前のブログでは中国革命の日本人協力者は孫文ら中国人革命家とは中国語で会話できなかったのではと書いたが、実は中国人同士でも会話ができなかったという話がある。

孫文ら広東省出身者は、いわゆる広東語を話し、また陳其美や蒋介石など浙江省出身は浙江語を、黄輿ら湖南出身者は湖南語を話しており、それぞれが出身者同士で革命グループを作っていたようだ。同じ方言をしゃべる同士でグループを作り、人脈でつながっていた。それ故、広東語を話す孫文と浙江語を話す蒋介石はまったくといっていいほど言葉は通じていないとも言われている。何しろ、言語学的には広東語と北京語は、英語とドイツ語ほど違う。英語しかしゃべれないものと、ドイツ語しかしゃべれないものでは会話はできない。蒋介石にしても生涯浙江なまりが強く、その演説は誰が聞いてもわからなかったようだ。日本でも幕末、薩摩藩と長州の武士では会話できないため、文章で伝達したという話しもあるが、その感覚だろうが。今の日本人にはそのあたりの感覚はわからない。

純三郎は子供好きだったようで、中国革命家の子供の面倒をよくみた。廖仲愷の子供、廖 承志は中国共産党史上最高の知日家といわれ、日中国交正常化に尽力した人物だが、子供のころ、純三郎とよく遊んでもらい、世話を受けたことから、日本にくるたびに純三郎の墓に参ったと言われる。また蒋介石の次男、蒋緯国は蒋介石の実子ではなく、戴季陶と日本人女性の間に生まれた子供だが、子供のころ純三郎のところに預けられたことから、戦後一人で日本に来て、当時80歳になる純三郎を訪ね、母の墓を探してお参りしたという話もある。後の台湾陸軍の上将で軍には強い影響力をもつ人物である。また冒頭の陳其美の息子も純三郎の世話を受け、その孫の陳恵夫と純三郎の子孫の交流は今も続いている。またある写真では中国革命の軍の指導者である黄輿の次男をひざに抱えている写真が乗っているが、中国革命の主要な人物との家族ぐるみの交流がしのばれ、改めて純三郎の人格を見直した。陳其美、廖仲愷、戴季陶、蒋介石、蒋介石、黄輿あるいは陳其美暗殺の折、三階で碁をうっていた胡漢民、これらの人物はすべて中国国民党の本当の主要メンバーである(Wikipdiaを参照にされたい)。もし純三郎も中国人であれば革命の功労者として同様な地位についたであろうが、逆にその後のどろどろした政争に巻き込まれ、早死にしたであろう。

国と国同士の外交と言っても存外、個人と個人の影響力が強いものである。歴史の表面には出ないものの、国同士の友好に純三郎の人徳が関連しているとも言えよう。

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