2010年9月2日木曜日
今東光
今東光というと、映画「悪名」のイメージのせいか大阪出身の作家と思われている。実際は、父の仕事の関係上、生まれは横浜であるが、両親とも純粋の弘前人であり、りっぱな弘前出身者と考えても差し支えない。
父武平は、弘前藩の下級武士、今文之助の4男として明治元年に弘前市山下町2番地で生まれた。当時の町割りは、現在でもそのまま残っており、店舗などが入る複合ビルになっている。敷地は200坪くらいであろうか、明治2年弘前地図では長男の今宗蔵の名前になっている。ちなみに宗蔵は東奥義塾の先生で、自由民権運動に参加した。
武吉は、東奥義塾で学んだ後、函館商船学校を卒業し、日本郵船に勤務した。海外航路の船長を長く務めたが、ちょっと風変わりなひとで、「くるみ船長」と呼ばれた菜食主義者で、くるみをもっぱら主食にしたようである。また晩年には今はやりのオカルト、精神世界に通じるインドの神智学に凝り、クリシュナムルティの著書『阿羅漢道』を翻訳したりしている。
母綾(あや)は、弘前藩医師伊東家久の4女として、弘前市元長町16で明治2年に生まれた。現在もその子孫が同じ所で医院を開業しており、また当時の家屋は仲町に保存されている。伊東の家の子供は、非常に優秀で、二男伊東重(1857-1926 春庵、号舜山)は、東奥義塾に進学し、明治9年の明治天皇のご巡幸の折には天皇の前で珍田捨巳らとともに英文暗唱を行った。明治8年に宣教師イングから最初に受洗した14名の義塾生の一人である。大学予備門を経て、東京大学医学部に進んだが、英語能力がずば抜けており、英語の授業はすべて免除され、その時間を利用して、理学部にいたモース教授の生物進化論などの講義を受けた。後に生家で開業し、養生理論を紹介したり、弘前市長などになった。弟の三男甚も優秀で、東奥義塾に入学したばかりの13歳の時に珍田や山鹿元二郎らとともに受洗した。当初は兄についで医学を志したが、途中から東京大学文学部に転じてドイツ文学を専攻して、卒業後は各地の官立高等学校で教えた。この兄弟は、伝道師の道を選ばなかったが、熱心なキリスト教徒であり、また「田舎新誌」(竹栖社発行 ヤブ医者のすみか)という漢文や和歌を載せた同人誌を出すような文化人でもあった。綾の父、伊東家久は同じ弘前藩典医の北畠家からの養子で、長男春益は22歳の若さで亡くなり、長女りょう(良)は斎藤連に嫁ぎ、次女ひでは体の弱かった母もとの代わりに家事を行い、二男重、三男基、三女ひさは今家に嫁ぎ、その長男邦器は新聞記者となった。四女あや(綾)が今武平と結婚して、東光、文武、日出海の三人の子供をもうける。
こうした教育熱心な家庭に育った綾は、当時の女子としては最も高い教育を受けた。朝陽小学校卒業後(?)、函館の遺愛女子学校に進学した。遺愛女子学校は東北以北で最古の女学校で明治15年にメソジスト宣教師ハリスにより創立された。おそらく綾はその1回生あるいは2回生であったと思われる。小さな手こぎ舟で津軽海峡を渡り、外人宣教師から直接英語を習い、賛美歌を歌った。弘前からも多数の女子がここで教育を受けた。特に1、2回生の多くは弘前の出身者で占めた(明治19年に遺愛女学校の分校を弘前に開設、弘前遺愛女学校)。多くの場合、生徒は在学中に受洗したので綾もキリスト信徒であった可能性が高い。英語教育は徹底しており、綾も相当鍛えられたと思われる。遺愛女子を卒業後は、東京の明治女学校に進み、さらに高い教育を受けた。明治女学校の卒業生には、羽仁もと子、相馬黒光、野上弥生子などがおり、学校の雰囲気はわかる。こういった教育を受けた綾は、いわゆる当時の先進的なインテリ女性だったようだ。今でいうと今東光のお母さんは、ハーバート大学卒業で、英語がぺらぺらといった感じであろうか。さらにメソジスト派の信徒であり、この宗派は規則正しい生活を規範にしていたため、禁酒、禁煙、公娼廃止など、きびしい生活態度を律した。初代弘前市長の菊地九郎も信徒であった母幾久子、妻久満子の双方から、こういった生活態度を求められたので、さすがに閉口したようで、男にとっては酒、たばこ、女、当然ギャンブルなどもっての他のきびしい節制を強いられた。
今東光も、こういった母親のもと育てられた訳だが、父の仕事の関係で、横浜、小樽、函館、大阪、神戸、東京と転々とする。神戸では関西学院中学部に入るが、おそらく母親がメソジスト派であったため、同じ宗派の学校ということで関西学院を選んだのであろう。ただ思春期を迎えるにつれ、こういった母親に反抗するようになり、結局関西学院も退学、その後兵庫県立豊岡中学校に転校するも、ここでも再び問題をおこし、退学処分となり、以後正規教育を受けることはなかった。弟の日出海は、対照的に神戸一中、暁星中学校、浦和高校、東京大学仏文に進んだ。
親がえらくて、教育熱心であると、子供はプレッシャーによるのか、それともその反発によるのか、グレることがある。今家とは親類筋にあたる(珍田捨巳の祖父有敬には男子がなかったため、野呂家から有孚を養子にしている。有敬の娘が今家に嫁いだようだが、確認はとれない)珍田捨巳の家の場合も、長男千束は一高を卒業するも、何度も東大受験に失敗し、気を腐らせて、水商売の女と遊ぶようになった。期待された二男は海軍に行くが、軍艦爆発事故で21歳の若さで亡くなる。千束はあまり欲のないひとか、後に家督を継いで伯爵になったが、すぐに弟の秀穂に家督を譲っている。作家タイプにひとで、鎌倉の文人とは親しく、今東光、日出夫、小林秀雄らと仲がよく、よく酒を飲んだようだ。
父親が船長であったため、長い航海の間、子供のしつけ、教育はすべて母親の綾が受け持った。この母の存在が、よきにつけ、悪きにつけ、今東光の人生に決定的な影響を与えたと思われる。
写真上は、明治2年当時の伊東家の所在地。伊東春庵は重のこと、隣の伊藤廣ノ進は伊東梅軒のこと。今は養生幼稚園となっている。写真下は、今東光、父武平の生家があった弘前市山下町の今の風景。地図は前のブログで示した。区割りは当時と同じ。
今東光 関西学院と東光の生涯(矢野隆司著 関西学院史紀要2005)を参考にした。
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