2008年7月6日日曜日

一戸兵衛 5


近くの本屋をのぞいていると、「北の鷹ー学習院長一戸兵衛大将の生涯」(佐野正時著 光人社)があった。以前私立図書館でも見かけた本だが、奥付をみると1992年発行となっており、16年も前の本を新刊として売っていた。

この本の中で面白かったのは、一戸が東奥義塾を卒業後、兵隊になろうと思い、弘前から東京へ徒歩でやってきて、明治7年に陸軍の臨時将校募集の試験を受けるくだりがある。そこで、試験官から「文章規範についてどうか」と聞かれ、「わかりません」、「十八史略はどうか」、「わかりません」、「日本外史はどうか」、「申し訳ありません」、「おまえは何を聞いてもわからぬ一点張りで、何のためにここにきたのだ」と問われ、「自分は立派な将校になりたくてきたのであり、軍にとって必要不可欠なものは、一にその人物、二にその知識であり、この一戸の人間を試験してほしい」と請願したところ、それならお前の好きな詩文を書いてみよということになり、自作の漢文を披露すると、試験官はその詩に感嘆して、その場で入学を許可されたという。

軍の入学試験が漢文の素養で決まるというのはいかにも明治初期のあらわれであろうが、面接で人物をみて、その場で決めるというやり方もすごいところである。一戸は、その後東京陸軍戸山学校生徒になったが、漢学は群を抜いていたという。おそらく稽古館および東奥義塾での修練の結果であろう。

東奥義塾は、明治5年に創立された学校で、おそらく慶応以外に福沢諭吉から唯一義塾の名前を使う許可を得た学校であろう。創立者の基地九郎も一時、慶応義塾に在籍しており、また創立メンバーの吉川泰次郎や小幡貞二郎ら慶応義塾の優秀な講師を教員として招くほか、学校制度も慶応義塾を模範にした。漢学部、英学部、小学部、小学科女子部、中学科、法学専門科、幼年科などがあったようだ。ちょうど慶応義塾の幼稚舎や普通部に相当するシステムである。珍田や佐藤愛麿らは英学部で、一戸は漢学部であったのであろうか。漢学の講師の一人で、初代頭取教授(塾長)つとめた兼松石居という人物がいる。非常に厳格で優れた漢学者であり、多くの門弟を抱えた。上の試験のやり取りを見ていると、多くの漢書を読むというよりは基礎をみっちり叩き込み、漢詩や漢文の作文を主とした教育法がなされていたのであろうか。また学問への真摯な姿勢も教えられ、生涯一戸は本を読み、学習をたやさなかった(同じ本を3回読むようにしていたようだ)。

明治5年当時、慶応義塾は私学では日本の最高峰であり、それを模した、さらには英語教育ではそれ以上の学校を日本の北の端に作ったことはある意味奇跡であろう。現在、義塾と名のつく学校は高知の明徳義塾と盛岡の江南義塾盛岡高校があるが、どちらも戦後できた高校で、慶応義塾とは関係ない。福沢諭吉の義塾の流れからすれば、直系を慶応幼稚舎や慶応義塾普通部とすると、東奥義塾はその傍流とみなすことができ、東奥義塾ももっと誇りに思ってもいいのではないだろうか。

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