2008年12月20日土曜日

山田兄弟17



 供養とは、亡くなったひとを思い出す事である。こういったブログで山田兄弟など郷土の生んだ偉人を紹介し、少しでも故人を思い出すひとが出ることは、そういった意味で供養となろう。中国革命に実際に参加し、亡くなった先人として山田良政を紹介してきたが、良政とともに恵州起義に参加し、からくも生きながらえ、その後第二革命で亡くなった櫛引武四郎というひとがいる。

「醇なる日本人」(結束博治著 プレジデント社)にも「良政が33年春、南京に開設された同文書院の舍監教授となった時の教え子に、櫛引武四郎がいた。櫛引は良政と同郷青森県の出身で、東奥義塾に学び、いわば良政の後輩である。彼は無理を願って良政と行を共にし、恵州の戦いに参加した。彼は幸い重囲を脱して上海に帰り、その後南支と内地の間を往復して、孫文の革命を支持し、1911年の辛亥革命から引き続き第二革命にも参加し、第二革命の偵察となって活動中、南京の戦陣で殺害された。彼もまた、師良政を追って若い生涯を終えた。恵州起義に参加し、第二革命でたおれた彼の死は、良政とともに孫文伝に記憶されるべき人物であろう。」と述べている。

 最近東奥日報社から発刊された笹森儀助書簡集に、明治35年に櫛引武四郎から笹森儀助宛の手紙が載せられている。抜粋すると「自分は櫛引英八の長男で、中国およびインドの革命に奔走しているものだが、一度韓国の義州から海城をへて、牛荘に行った折、山田良政とお尋ねしようと思ったが、そのときは不在で会えなかった。その後、恵州起義で山田良政の行方がわからず、あちこち探しまわったが、結局はわからず、今は革命資金?をためている。是非一度会っていただけないか。」というものである。この後、櫛引と笹森が会ったかどうか不明だが、山田良政と笹森義助は面識があるが、笹森と櫛引はとくに面識はなかったものと思われる。ただ武四郎の父である櫛引英八は五所川原(羽野木沢)選出の最初の県会議員であり、父親と笹森は面識があったのであろう。

 五所川原選出の県会議員で櫛引ユキ子というひとがいる。ロータリークラブの会員の県会議員の西谷さんに聞くと、政治家は世襲的に政治家をやるひとが多く、確か櫛引ユキ子さんも政治家の家系と聞いたので、ひょっとして同じ県会議員で親族かと思い、さきに挙げた櫛引武四郎について尋ねてみた。いまだ返答はなく、どうも関係はなさそうである。

 何とか、この櫛引武四郎と孫文、山田兄弟との関連を調べて、供養したいと考えている。情報があればご連絡いただきたい。

 

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