2012年8月6日月曜日

南十字星の誓い

 森村誠一さんの新刊「南十字星の誓い」を読んだ。シンガポールにある東洋の至宝、シンガポール博物館、植物園を戦火から守った日本人とイギリス人の友情を描いた作品で、主人公の富士森由香、シンガポール華僑テオなどを除いて、ほぼ史実に近い話である。

 なかでも面白いエピソードのひとつに、軍人か勝手に図書館から本を借出し、そのまま本が帰ってこないのに手を焼き、博物館長のイギリス人コナーの著書「マラヤの路傍の木」を天皇陛下御愛読書として館内の陳列したところ、一気に未返却がなくなったという。徳川義親は名古屋徳川家の第19代当主で、この変ったお殿様が植物園、博物館の総長になったこと、そしてやや山師のけのある田中館秀三が園長をしていたことも、植物園、博物館の保存には、大いに役立った。さらに陰の力としては、昭和天皇は植物学者であったことも軍として植物園を保護せざるを得なかった。ただこうした館の運営、保存は当時の他の日本占領地でも同様に行われていたが、このシンガポールの奇跡は、それまで植物園の園長をしていたイギリス人ホルタムや副園長のコナーを終戦まで一緒に、学者として勤務していたことである。日本人、英国人、シンガポール人が一緒に協力して植物園を守った。

 この本にも登場する郡場寛は青森市生まれの植物学者で、京都帝国大学理学部教授退官後に、このシンガポール植物園の園長として赴任した。ウィキペディよりの引用であるが、「ホルタムは自分の研究を完成させた恩人として郡場の名を挙げて感謝した」、コナーは戦後、同胞とともに敢えて収容所に留まる郡場を評して「私の心を激しく打ったのは勝った日本人科学者の思い遣りや寛大さと言うより、敗けてもなお、これだけ立派で、永久に後世に受け継がれてゆく業績を残した彼らの偉大さであった。敗残者はいまや勝利者である敵性人の心に大いなる勝利の印を刻みつけた。敗けてなお勝つとはこういうことを言うのだ」と真の紳士、学者として尊敬している。

 シンガポール華僑虐殺の主導者として悪名高い辻正信が登場するが、その正反対の人物として田中館、徳川、郡場などがいたことが救われる。最近になり多くの軍人の再評価がなされるが、この辻だけは、ノモンハン、シンガポール、ガダルカナル、インパールと参謀として作戦的には失敗は多く、どうしてこんな人物を最後まで処罰しなかったが、不思議だし、それが旧陸軍の問題であった。

 うちの母が2、3年前、神戸であった森村さんの講演に行ったところ、講演後、出口近くに一人でいた森村さんと30分ほどよもやま話をしたと自慢していた。実にやさしい紳士で、一気にファンになったようだ。また終戦の日がやって来るが、戦争の最中にもこうして異国の植物園を命がけで守ろうとした日本人、イギリス人、シンガポール人がいたことを森村さんは伝えたかったのだろう。

 郡場寛の父、白戸直也は弘前藩士で、函館戦争で重傷を負い、その治療のためもあり、酸ヶ湯温泉を開拓した。兄の名は白戸本太郎、父は白戸東太郎で、維新を契機に先祖の名前、郡場に改名した。明治4年の扶持によれば家老の木村千別が220俵に対して、白戸本太郎は80俵、弟の白戸直也は20俵で、これは石200石、50石に相当し、白戸本家の石高は中級から上級のものとなる。白戸姓は明治2年絵図では6名いるが、中級武士となると住まいから、若党町の白土幸作と徳田町の白土浪江に絞られる。浪江は官職名であることから、おそらく郡場寛の実家は、徳田町の白戸浪江であろう。


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