2014年5月31日土曜日

黒石美人



 最近はずっと今東光の著書を読んでいる。小説なので、そのまま信じるわけにはいかないが、東光は若いころは相当に女遊びをした。色々な場所で多くの女を抱いた。その結論として、「総別、上方の女は皮膚が悪い。それに比べると関東の女は色こそ浅黒いが肌理がこまやかで、しっとり潤っている。それが更に東北に行くに従って雪国の女の肌ときたら、餅肌といわれるほど潤滑で、その抱き寝の心持ちというのは得も言われないのだ。」(「青春画譜」、今東光、昭和36年)と語っている。さらに東北人の特徴として米子の彫刻家、戸田海笛という人物の言として、「秋田泥棒、南部火つけ、津軽人殺しと言うじゃないか。その津軽人が君なんだから、うっかりすると今夜あたりお陀仏になってたかもしれない」としている。これは福士幸次郎によれば、「南部の火つけ、津軽の手長、秋田のほいド」、「日本東北部のこれ等三地方人の質を明した言葉として用ひられてゐる。南部人は何かといふと他人の家に火をつける。性質暴。津人は手が長い。敏捷で がならぬ。秋田人は享的で物欲しがりだといふ。ホイドとは乞食の事である。一に南部の人殺し、津の手長、秋田の火つけといふことも言はれる。地方人にする斯ういふ口は多いものである。」となっており、こちらの方が一般的である。手長とはどろぼうのことで、戸田の勘違いであろう。

 話を戻そう。今東光の「青春放浪」(光文社、昭和51年)を読むと、今和尚は津軽女のうち、とりわけ黒石美人をお気に入りのようである。昔から弘前男に黒石女という言葉があり、黒石には美人が多い。本の中の従兄との会話を取り出すと、「「どんだば。あの黒石女は」、「とても素晴らしかったな」、「そんだべ。昔から津軽男に」、「黒石女って言うんだろう。色が白くて、肌がよくて、そして情が深いって」、「そんだ。そんだ。黒石女を抱げば東京の女などかさかさした乾物みたいで、とうていまいねな」と従兄はうまい表現をする。」別の箇所では「少し赤毛の髪を束髪に結い、地味な単衣に帯だけ派手なのをしめていた。津軽女に似げない瓜実顔は津軽氏の始祖が都から美女を輸入した末裔の血ではあるまいか。大体、津軽女は円顔が多いからだ。黒目勝ちの大きな眼が印象的で色は抜けるように白い」と従兄の恋人を評している。

 もともと津軽の地は、縄文人、蝦夷の人々が住んでいたところであり、17世紀まで竜飛岬近くには蝦夷の部落があった。そこに主として秋田県側から大館を経由して弥生人、倭人が移動してきたのであろう。松木先生の血液型の研究からも弘前、黒石地区の人々と秋田県北部の人々の関係性は高く、秋田美人と津軽美人は同系統なのである。今東光は津軽に美人が多い原因を初代殿様、津軽為信が都から多くの女をつれてきたとしているが、そんなに美人が京都からこんな僻地には来ない。むしろ、混血化の結果であろう。まず倭人と蝦夷の混血、さらに渤海人との混血があったのではないかと思う。渤海(698-926年)は北朝鮮北部、昔の満州に相当する地域にあったツングース族の国だが、詳細はわかっていない。日本との交流が多く、渤海使として727年から927年まで都合35回の使節派遣があった。ルートとして、直接九州に向かう筑紫路と呼ばれるものは危険なため、塩州から一気に日本海を横切り日本に向かうルートが安全であった。現在の北朝鮮とロシア人の国境近くのポシエトから秋田、能代、などに海流に乗って多くの渤海人が渡海した。

 寒い地帯に暮らすツングース族からすれば、北日本の寒さなどを問題なく、商売などで日本に来ているツングース族の一部が定着したと思われる。

 写真中は「くぐる鳥居は鬼ばかり」というブログで引用している黒石の東公園での大正末年の芸者さんの写真である。ちょうど今東光がよく弘前にきていた時期である。左右一番端に写っている女の人はタイプである。写真下は「空白つれづれ草」というブログに載っている大正中期の鯵ヶ沢遊郭の女将の写真である。歳はいっているが、鄙には稀な美人である。

4 件のコメント:

kuuhaku さんのコメント...

空白です。
空白つれづれ草というブログを書いています。
いつも先生のブログを楽しませていただいています。
今後ともよろしくお願いします。

広瀬寿秀 さんのコメント...

いつもブログ拝見しています。勝手に写真引用し、申し訳ございません。明治四年の絵図、参照されているようですが、私の明治二年絵図の方が鮮明ですので、そちらの方をお好きに引用されても結構です。必要ありましたらメールでご連絡くだされば、デジタルデーター(CD)をお送りいたします。

匿名 さんのコメント...

私は埼玉産まれ、埼玉育ちですが、母親の両親の方はどちらも黒石出身でした。。ひいおばさんは『黒石小町』と言われたほどの美人だったそうです。私も母も、母の姉もその母も、母方の従姉も脛背の高さにかかわらず、みなが長いのが特徴的です。黒石のひいおじいさんも、脛が長く、目が少し青かったことを、最近になって母から聞きました。われわれ一族は、秋田県の人にあるように、Eu型を受けついでいるのかもしれません。私自身も、手足が長く、色白で、顔が小さく、目は茶色かっているのが特徴です。もし尿を調べた結果、欧米人と同じような型がでたとしたら、先祖がどこからきたか不思議です。母方の母方は黒石藩の藩士だったようですが。

広瀬寿秀 さんのコメント...

知人の形成外科の先生も黒石は美人が多いと言っていましたし、私の印象でもそうです。白人の血はまさか入っているとは思いませんが、黒目の部分が、緑がかったり、茶色の人を、こちらに来て初めて見ましたし、色の白い人は静脈まで透けて見えるほどです。こちらに来るまで鹿児島に8年程いましたが、同じ日本人といっても人種が違うかと思うほど差があります。昭和になるまで、結婚相手は近隣から選んでいましたので、血の拡散が少なく、こうした地域差があるのでしょう。一度、黒石においでください。昭和30年ころの風景がそのまま残っており、懐かしいという観光客もいます。