2007年6月26日火曜日
笹森順造2
笹森が塾長として再興した東奥義塾は、非常にユニークな学校で、無試験入学を行った。当時、弘前には中学校は弘前中学校と弘前工業学校の2校で、毎年数百名の不合格者を出していた。アメリカ暮らしの長い笹森にしてみれば、入学は各小学校に推薦にまかせ、進級を難しくする方法を考えたのであろう。大正11年に開校し、入学者数は152名、入学金は1円、授業料は月3円だった。当時の授業料は公立も高く、中学に行ける児童は親が金持ちに限られていた。この学校はメソジスト派のキリスト教教育をメインにしていたが、笹森の発案で剣道の授業も正課となった。講師陣はすごく、後になるが教師25名のうち、7名がアメリカの大学を、そのほかには東京高等師範、京都帝大、早稲田高等師範、青森師範などを卒業したものが大半であった。私のおじは東京高等師範学校を卒業して昭和初期に徳島県の阿波中学に赴任したが、赴任した折には駅から学校までの沿道を町のひとが迎え、その中を馬に乗ってきたそうだ。それくらい、高い教育を受けた教師が田舎に赴任することはまれであった。優秀な教師を集めるために笹森は尽力し、給料も青森県の平均が120円に対して、東奥義塾では145円であった。生徒に本当に優れた教育をするという観点から教師を選考したため、詩人の福士幸次郎も一時教師となり、その教え子には後の直木賞作家の今官一も出ている。
理想的な学校を目指して笹森は奮闘する。経営的には慢性的にきびしかったようだが、何度も原因不明の失火が起こり、鉄筋コンクリートの校舎作りが着手された。メソジスト教団の支援も受けて、昭和6年にヴォーリーズ設計による3階立ての校舎を63000円の資金で作られた。ヴォーリーズの建物は今でも日本に多く残り、例えば関西学院大学、神戸女学院や大丸心斎橋店など代表的な近代建築とされている。お城近くの今の観光館あたりにあった旧東奥義塾校舎がそうだったのだろうか。郊外への校舎移転に伴い簡単に壊したようだが、今から考えると随分もったいない。いずれにしても日本の北の果てにこれだけの学校を作った笹森の情熱は、西の長崎鎮西学院の再興を目指し、早死した兄卯一郎の意思を受け継ぐものであろう。
明治期にアメリカから弘前に迎えた宣教師の数が34名、東奥義塾からアメリカに留学したものが40名にものぼり、時代や地域性を考えるとこの学校の特異性が現れている。
下の写真は弘前市若党町の笹森の生家跡と思われるところである。すべての建物は壊され、広い敷地内は荒れるにまかせてはいるが、逆に今はやりのイギリス式庭園のようで、かえって自然の庭のような景観になっている。
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