2007年6月7日木曜日
笹森順造1
笹森順造(1886-1976)は、父要蔵、母さがの六男として弘前市若党町49で生まれた。生家は現在、若党町の武家屋敷街の中程に空地となってあるが、住む人もいない庭にはショウブなどの花が庭いっぱいに自然に咲き誇っている。父親は津軽藩の藩士で御武庫奉行を勤めた宝蔵院流の槍の使い手で、幼い頃から武術に囲まれた環境のもと、7歳になると市内の北辰堂に入門した。剣術家笹森の始まりである。弘前は面白いところで、明治になっても剣道などの武術が盛んで、また藩政時代も古い武術も大事に残されていた。笹森が修行していた北辰堂は小野派一刀流ではげしい稽古で有名であった。現在も市内長坂町に道場は現存し、最近の古武道の脚光により注目されている。市内の時敏小学校、県立青森中学校卒業後に政治家を志して早稲田大学の政治科に入学した。兄卯一郎は、本多庸一の薫陶のもと、東奥義塾を卒業後にインディアナのデポー大学(珍田や佐藤愛麿が留学した大学で、このころ東奥義塾からは優秀な人材がここに留学した)に入学し、そこで洗礼をうけて熱心なキリスト教徒となった。デポー大学で哲学博士、ベーカー大学で法学博士を授与された後、帰国して九州長崎の鎮西学院の院長に就任した。若く亡くなったが今でも中興の祖として尊敬されている。またもう一人の兄良逸は陸軍大将浅田信興の養子となり、陸士、陸大を卒業して最終的には東京湾要塞司令官陸軍中将(男爵)となった。
兄の卯一郎は、順造に決定的な影響を与えた。15歳のころにはキリスト教の洗礼を受け、熱心な信者となり、剣道の激しい修練と平行して、キリスト教の伝道活動も積極的にこなした。早稲田大学卒業後は兄の助言をいれ、1年間「新公論」という総合雑誌社で実務を経験した後、兄から費用を提供してもらいアメリカのデンバー大学の大学院に進学した。卒業後は剣道をするかたわら、在米日本人のための仕事をしていたが、大正10年にメソジスト教会のウェルチが東奥義塾長の白羽を順造に立てた。
輝かしい伝統を持つ東奥義塾は、経営に行き詰まり、大正2年(1913)には廃校となっていたのである。当時、弘前には県立一中があったため、弘前に2つも中学校はいらないという声もあったが、創立者の菊池九郎やOBの東奥義塾再興の思いは強く、何とかアメリカのメソジスト本部から資金を調達することの成功し、その塾長の条件として、弘前の人であること、日本とアメリカの大学を卒業していること、キリスト教徒であることが挙げられ、これに合致するひとは順造しかいなかったのである。
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