2007年8月21日火曜日
陸羯南4
昨日の弘前ロータリークラブの外部卓話で、陸羯南記念事業実行委員会の事務局長の舘田勝弘さんのお話を聞いた。羯南と正岡子規の交流についてのお話をいただいたが、内容が濃く、30分の時間では足りないくらいであった。当時新聞「日本」の給料は他の新聞社の半分くらいしかなかったのに、多くの記者が羯南を慕って集まったようだ。それほど新聞社としては困窮した状況であったし、羯南自体生活費にも困り、袴も一張羅しかなかった。その袴も佐藤紅緑の求めに応じてあげていたようだ。このような状況下でも、羯南は病魔に侵され、新聞人としての仕事もできない子規をかわいがり、客員社員として給料を与えていた。実の徳の厚い人である。
保坂正康著「昭和とは何だったのか」(講談社文庫)で、日露戦争と太平洋戦争のナショナリズムの違いについて検討している。その中で、日露戦争に行きつくまでのプロセスと太平洋戦争へのプロセスの類似点を指摘し、陸羯南の「近時政論考」(ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000253/files/1401_24296.html)を引用し、伊藤、山形ら明治指導者を国権論派とし、対外政策では穏健派に立ち、国内体制拡充のためには対外政策を二義的に考える欧米的な立場をとったとしている。一方、開戦賛成派の参謀本部の軍人らを国富論はとして位置づけ、国富の公益を優先して考える。日露戦争と太平洋戦争の分岐点はこの指導者のナショナリズムの違いとしている。陸羯南のような明治の知識人は、欧米の言語、文化、思想に通じていて、彼らの主張するナショナリズムは昭和十年代の偏狭なナショナリズムとは本質的に違う。国権論からのナショナリズムと国富論からのナショナリズムは競合しながらも、日露戦争の勝利に伴う国民感情の傲慢さからしだいに大衆ナショナリズムに変遷していき、太平洋戦争に向かった。
舘田先生のお話を聞きながら、羯南は50歳で死んだが、あと30年生きていればどうだったろうかと考えた。おそらく山田兄弟との関係からも孫文の中国革命にも肩入れしたであろうし、その後の日中戦争にも反対したであろう。
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