2007年8月6日月曜日
山田兄弟7
これも「津軽を拓いた人々」からの引用である。山田良政の妻とし子の話をする。
山田良政の伴侶として菊池、山田家が選んだのは、医師藤田奚疑の長女藤田とし子(明治9年ー昭和36年)だった。藤田奚疑は非常に進歩的な人で早くからキリスト教徒となった。自分の娘たちも幼児からキリスト教教育をさせようと、11歳になったとし子を函館の遣愛女学校に入学させ、米婦人宣教師から英語とキリスト教を徹底的に教育された。高等科卒業後も学校に残り、足掛け10年以上も学んだため英語はぺらぺらだったという。
厳格な士族の生活になじませるため明治31年6月に山田家に入籍して同居することになった。夫の良政とはまだ会っていない。良政は革命運動に明け暮れるがその寸暇を惜しんで弘前に帰郷して、とりあえず結婚式はあげたのもつかの間、一週間ほどで中国に行ってしまった。これが良政ととし子があった唯一の時間である。その後も中国からは何の連絡もないまま、ひたすら良政の帰りをとし子は待ち続けた。実際は9月には良政は戦死したのであるが、はっきりしないまま、弘前女学校や遣愛女学校で英語などを教えていた。
一応中国革命を成功させた孫文は、大正元年に純三郎とともに日本にやってきた。とし子は良政の父晧蔵と孫文の通訳を英語でしたという。この時、孫文は良政の遺徳をしのび東京谷中に記念碑を建てた。これらのこともあり、大正2年にとし子もようやく遣愛女学校を辞して、老齢の山田家の両親のもとにあって孝養を尽くした。大正5年には孫文の分身というべき戴天仇が晧蔵の病気見舞に来弘し、また大正7年には純三郎が良政の死んだ現場を訪れ、一塊の土を持ち帰り、郷里に埋葬した。同年11月に晧蔵が死んだ。なすべきことをすべてし終えたとし子は離籍を申し出て、藤田姓にもどった。とし子の晩年は穏やかだったという。
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