2008年1月24日木曜日

笹森儀助4



 笹森儀助には、妻いくとの間に三男四女の子供がいた。生涯夢を追いかけた彼には、家を顧みることもなく、全く財産らしきものはなかった。貧窮のため四人の娘のうち三人までが独身のまま世をさったという。その子、笹森修一(明治19年ー昭和19年 1887-1944)は、当時住んでいた家が長坂町にあり、弘前教会にも近いことから、早くからキリスト教会に通っていた。東奥義塾に入学してからはいっそう熱心な活動を行い、義塾在学中の明治34年に受洗した。

 当時のキリスト教は、神の前での人間の平等をとくため、社会主義と紙一重の存在で、片山潜などの初期社会主義者の多くはキリスト教と深く関係していた。笹森修一も近所に住む竹内兼七(明治19年ー昭和32)と同じ年齢であったことから、義塾在学中から彼と一緒に社会主義活動にのめり込んでいった。竹内とともに社会主義団体の「弘前労働協会」を作ったり、片山潜の「社会新聞」に津軽塗職工の賃上げストを指導した記事を投稿したりしていた。一方、竹内は実家が資産家であったため、境利彦、幸徳秋水や片山潜などの初期社会主義者を資金面で支えた(大正5年の地図をみても、百石町と長坂町の辻にある竹内質店は相当大きい質店であったようだ)。明治40年に上京して青山学院に入った笹森は、中央の社会主義者と一緒に活動するようになり、スラム街でビラまきなどを行ううちに警察にも警戒されるようになり、青山学院を中退して、神戸神学校に転校した。賀川豊彦(1888-1960)は、笹森とほぼ同年齢で同じくキリスト教社会主義に共感し、明治39年に新設された神戸神学校に入学した。おそらくここで笹森は賀川とつながりができ、一緒にスラム街での伝道活動を行ったのであろう。賀川はその後は農民運動、社会運動や労働運動に指導者となり、有名になったが、一方笹森は明治44年には伝道師の資格をとり各地に伝道した。最後は出雲今市教会(写真)で伝道活動を行い、そこで死んだが、その子笹森修が跡を継いだ。

 笹森儀助の目は、常に弱者の視点から社会の矛盾を見ていた。息子修一が社会主義、キリスト教に共感していったのは当然の流れであろう。離ればなれで、おそらくは家を顧みない父には反発もあったであろうが、同じ弱者の視点は親子に共通していた。賀川と違い、修一はキリスト教牧師としての生涯を貫いたが、これは明治43年の大逆事件が影響していると思われる。尊王の志の篤い父の影響から、おそらくは天皇制も含めた社会転覆までついていけなかったのであろう。そして純粋に困っているひとの中に入り、キリスト教徒として活動することにしたのであろう。

 なお弘前出身のプロレタリア詩人として、菊岡久利(1909-1970)、杉沼秀七(1903-1992), 工藤正一(1907-1929)などがいる。
 

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