2010年4月19日月曜日

第百回松蔭祭(吉田松陰先生記念会)



 昨日、養生会主催の第100回「松蔭祭(吉田松陰先生記念会)にお誘いを受け、参加してきた。嘉永五年(1852年)3月1日(旧暦、新暦では4月18日)に長州藩の吉田松陰先生と熊本藩の宮部鼎蔵先生の二人が弘前の伊東梅軒先生を訪ねたことから、それを記念して明治44年からこの会を開いているという。

 当日は養生会の会員2−30名が参加し、国家斉唱の後、これはおもしろいと思ったのは、吉田松陰先生が著した東北遊日記の中から弘前滞在に関する文章をまとめた摘録を代表者が朗読し、その後吉田松陰先生の詩、歌、伊東梅軒先生、伊東重先生、陸羯南先生の詩をみんなで朗読する。久しぶりに漢文の世界に入り、その格調高い文にふれて感動した。また今回は秋田先生による「比較、近現代史」と題する記念講演もあり、これも大変おもしろかった。

 新市長の葛西市長もわざわざ記念会に参加され、こういった古くから続く事業を大事にしている姿勢を感じた。

 100年も続いていること自体がすごいことである。この間、明治、大正、昭和、平成とめまぐるしく時代が変わり、ことに敗戦後の混乱時期にも有志が集まって記念会を続けていることは奇跡である。それも百年といえば、大きな節目であるにも関わらず、何事もなかったように淡々としているのは、すがすがしい。ややもすれば、100年も続いていると自慢したくもなろうし、また盛大な記念会を開催しようという見栄も出てこようが、そういった雰囲気はこの会には全くない。含蓄だろうか、それとも質実剛健をモットーとする会の方針だろうか。これが弘前および市民の偉大な点であろう。

 養生会の生みの親、伊東重は津軽藩医の息子として弘前市元長町に生まれ、東奥義塾から東京大学医学部を卒業した。その当時のエピーソードとして、義塾で英語をみっちり習ったため東京大学では英語の授業が免除され、その時間を利用して義塾の学友で理学部に学んでいた岩川友太郎と一緒にモースの進化論の授業を受け、それがその後の養生学に発達した。岩川も英語で十分にモースと会話できたようで、伊東も秀才の集まる東大でもその英語能力が飛び抜けていたことがわかる。当時の東奥義塾の英語教育のレベルを知ることができる。ちなみに漢学のコースでも独特な教育があったのか、一戸大将も今でいう士官学校の入試は、この漢文能力で合格したし、日露戦争旅順攻略戦で乃木と唯一漢詩を作り、批評しあったのが一戸大将であった。文人として知られる乃木に劣らない漢文の素養があった。

 ちなみに伊東重が市民の健康増進、医者いらずの体作りを提唱した養生会の設立は明治27年(1895)、今年で115年、その運動の一環として養生幼稚園が創立されたのが明治39年(1907)、今年で103年、いずれも古い。弘前は古いものが多く残っているところで、近所の写真館は来年で130年、先の述べた黄金焼店が124年、御菓子司 大阪屋にいたってはなんと創業は寛永7年(1670年)で340年に歴史をもつが、こういったことを誇ることはない。ただ商売をしてきて時がたったという感じなのである。ここらあたりの素っ気なさというのがよい。

 懇親会の席上でも話題になったのは「藤田のブドー液」で、このブドー液は昭和3年から作られ、今でも弘前では年寄りから若者までなじみが深い。もともと明治政府の肝いりでブドウが海外から殖産のため輸入され、それを今の弘前駅近くの大町付近でブドウを栽培したのが「藤田葡萄園」で、栽培には大変苦労しながら、葡萄酒、葡萄ジュースを作った(弘前市松森町で酒造業を営んでいた六代目藤田半左衛門が和徳村字福田(現大町一丁目)に開いた葡萄園、石碑がある?)。ジュースの方が液と呼ばれるのだが、なるほどこれは濃いジュースというよりは液に近いもので、かっては病気にならないと飲めない、死ぬ前に「ぶどう液を飲みたい」といってようやく飲めたという代物である。ほとんど養命酒の世界で、畏れ多くジュースとは呼べず、今でも薬屋で売っていたりする。発売から82年目を向かえる。

 お盆やお彼岸に墓参りに行くが、こちらでは縁者の墓参りもするため、花もいっぱい持っていき、まず自分の家の墓所を行ってから、違う寺の分家や縁者の墓をあちこち回る。子どもからこの墓は誰のかと聞かれても、わからず、おやじのころからここには参ることになっているとしか言えなかったという笑えない話がある。内の家内の墓所でも、先にお参りしていたひとがいたので、だれかと聞くと、曾じいさんの兄弟の子どもの子どもと言われた。ほぼ100年前に分かれた縁者ということになる。

 これほど弘前の地というのは、100年が身近な街である。

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