2010年4月21日水曜日

明治2年弘前地図(在府町、塩分町付近)




 友人の先輩歯科医より、「うちに古い弘前の地図があるんだが、先生は弘前のことに興味があるようなのであげるよ」と言われたので、よろしくお願いしますと言ったところ、本日わざわざ持ってこられて恐縮した。正直に言うと、古い印刷した地図くらいに思っていたが、持ってきた地図は2枚、一枚は青森県全図、もう一枚は弘前市内のもので、いずれも手書き、彩色の1.5×2.0mくらいの大判の精緻なものであったため、驚いた。こんな貴重なものはいただけないので、いずれ保存できる博物館や図書館に寄付する前提で一時的に預かることにした。

 この弘前の地図は、このブログに何度も登場した明治4年7月の士族在籍引越之際地図とほぼ内容は一緒である。くわしく比較していないので詳細は不明であるが、覚えている限りでは幾分の違いがある。一度、比較検討する必要があろう。

 明治2年11月の弘前地図とされており、上記地図より1年8か月前のものだが、地図上の書き込みにはそれ以降のことも記載されており、明治2年に製作されたものかは不明であるが、明治初期のものであるとは言えよう(明治11年に今の朝陽小学校当たりが開墾され、小学校の学田となったとの書き込みがある)。

 例えば、珍田捨巳の生家は森町であるが、明治4年には生活のため農業に従事することになり黒石近郊の浅瀬石に移住した。この地図では時鐘堂の前に珍田直太郎の名前が見える。珍田の父有孚(ありざね)は野呂家からの養子であり、珍田の家の3軒隣に野呂の家がある。この直太郎は捨巳の父のことであろうか。いずれにしても明治4年より前のことである。

 また在府町の陸羯南の生家、中田家は今の標識のある場所であるが、山田兄弟の生家は、確か士族在籍引越之際地図では中田家の真ん前であったが、この地図では右斜め前に山田兄弟父の山田浩蔵の名前が見える(確認したところ士族在籍引越之際地図と明治4年地図の記載は全く同じでした)。ただ実際の場所でみると西小路と茂森までは結構距離がある、ここに2軒しかなかったのも不思議である。

 山田の家から茂森に出て、その上の方を見ると弘前劇場元祖座元廣居藤八の名前が見られる。元祖ということは明治期には弘前劇場が何軒もあったのか、どこにあるのか、また探したくなる(士族在籍引越之際地図ではここの場所は劇場とのみ記載されており、ここに弘前劇場があったのであろう)。

 博物館などの寄贈してしまうと、研究者以外なかなか実物を見ることができなくなってしまう。情報をデジタル化して完全に開示することが、重要と思う。本ブログでできるだけ、明治初期の弘前を紹介したいと思う。地図を完全に画像化することは難しいので、手持ちのカメラで写した像を貼っていく。画像を軽くしないと貼れないが、できるだけ拡大しても名前が判別するようにしたい。要望があれば、そこの場所の画像を提供したいので、連絡されたい。

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