2011年1月20日木曜日

弘前藩明治国絵図 2





 弘前藩と南部藩とは昔から仲が悪く、戊辰戦争ではついには戦争までした。そのため、藩境には藩境塚というものが存在し、両方の藩の境にある川幅1mくらいの小さな川、二本又川の両岸に2個ずつの塚がある。弘前藩領絵図では、この二本又川(境川)のことを「ハライ川」と記されており、別名であろうか。さらに説明には「狩場沢より南部領馬門迄十五丁」と書かれ、平内の狩場沢から野辺地の馬門までの距離を示している。そして南側、山側の藩境を「此界川より南の方、炭塚山まで峯道南部領国堺(境)」としている。具体的には大烏帽子山、三角嶽、柴森、小川嶽、石倉嶽、膳棚山、芦柄嶽そして灰塚(炭塚山?)の稜線が藩境となる。この炭塚山(炭塚森 標高576m)は江戸期、弘前藩、秋田藩、南部藩の3藩の境であり、現在は青森県平川市と秋田県大館市、小坂町の3市町の接点となっている。弘前藩が戊辰戦争の折、南部藩領の濁川地区(小坂町)に攻め込んだのはこの炭塚森からのようだ。

 青森湾についての説明では、平内町の小湊漁港には「此湊浅くして大船不入 漁船ばかり入」との説明がある一方、青森港については「青森の澗(かん)南風船かかり吉 是より三厩へ九里 南部領田南辺川湊迄十五里 松前へ十四里」の説明ある。澗とは湾または海岸の船着き場の意味で、青森港から南風が吹くと、いい船旅ができるということか。

 野内からの青森湾の海岸線には滝ノ口(たつのくち)、狸ヶ崎、サル石、烏頭前懸橋、湯ノ島、裸島、鴎島、藻浦島(茂浦島)、双子島などの名が見える。鳥頭前懸橋に相当する場所は今の浅虫と久栗坂の間にある善知鳥崎にあたるが、今でも二つの島を繋ぐ橋があるのだろうか。また野内から久栗坂の間にある狸ヶ崎もサル石も現在地は不明である。航海をする上での目印だったのかもしれない。

 日本海岸の深浦では、「此間口百五十四間 深八九尋 是より松前へ二十五里 羽刻廉(函館?)渡へ三十五里 西南風船かかり吉 北風悪し」となっていたり、小泊、十三湖、三厩などの港も同様な説明がある。また三厩近くにも甲岩、鎧岩などの記載もあり、海岸線の説明はやけにくわしい。

 弘前藩領絵図は明治に作られたせいか、正保、元禄、天保の国絵図に比べて、十三湖の大きさ(大きく書かれている)や鯵ヶ沢への海岸線など、現在の地図に近く、精度は高い。伊能忠敬による測量地図は長く秘匿されていたが、慶應3年になってようやく「官版実測日本地図」として公表された。参考にされたかもしれない。

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