武士の二男、三男はかわいそうなもので、他家に養子にいくか、実家で一生過ごすしかなかった。それでも戊辰戦争、函館戦争になると、長男だけでなく、二男以下も戦争にかり出され、また人材登用の政策により、優秀な人材は江戸などに留学するようになった。さらに、その活躍により、別家を立てるケースも多くなってきた。
こうした二男以下の若者は、ある意味、家のしがらみがなかったためか、ことに幕末、脱藩という行為にでるものがいた。弘前藩は最終的には勤王の方向に進むが、それまで藩論は尊王、佐幕のまっ二つに別れていたため、藩論が一致せず、幕末の騒乱に全く関与しなかった。そうした時代のうねりに参加しようとした若者が入隊したのが新鮮組である。
弘前藩士で、脱藩して新鮮組に参加したのは、毛内有之助、千田兵衛、菊池央、白戸友衛である。
毛内有之助は、弘前藩の用人(家老に次ぐ高官)、有右衛門(祐胤)の二男で、家は元寺町にある。文久元年(1861)に毛内家に伝わる名刀「天国」を持ち出し、脱藩する。その後、元治元年(1864)に伊東甲士太郎に誘われ新撰組に入隊する。文学師範、諸士調役、監察などの役についたが、伊東らが御陵衛士を拝命し、新撰組を脱退するときに行動をともにする。結果、慶応3年(1867)に近藤勇らにより京都、七条油小路にて暗殺される。他の藩士と違い、由緒ある家に育ったため、きちんとした学問、武道を収めていた。そのため「毛内の百人芸」と言われるように何でも器用にこなした。享年、33歳であった。父、有右衛門の後妻になったのが、毛内滝子で、日本でも有名な女流歌人であり、息子の有之助も和歌をよくした。新撰組にはめずらしい文科系の人物であった。
千田兵衛は、慶応3年(1867)頃に新撰組に入隊する。上瓦ヶ町に千田百二郎の名があり、兵衛はその弟となる。近藤勇付きとなり、歩兵指図役下役として、鳥羽伏見、甲州、会津と転戦し、母成峠で戦死する。享年、23歳の若さであった。
菊池央は、英、央五郎とも呼ばれ、弘前藩士の三男として生まれ、千田と同じく、慶応3年に入隊する。鳥羽伏見、甲州、会津戦争では白河の戦いで戦死する。局長近藤勇の仇、清原清を討つ命を受けて、出陣し、達成した。享年21歳で、おそらく千田と一緒に脱藩して新撰組に入隊したのであろう。菊池姓は多く、父親の名がわからず、絵図では同定できない。
白戸友衛は、弘前藩士白戸秀平の二男で、千田、菊池と同じく慶応3年に入隊し、大砲警備下役として、鳥羽伏見、会津、函館戦争に転戦し、生き残るも、弘前藩に引き渡されると知り、自決する。白戸姓は明治二年絵図では、6名、可能性としては千田兵衛の同じ町、上瓦ヶ町の白戸林之助の息子のように思える。同時期に入隊した、千田、菊池が戦死しており、おめおめと生きながらえるのを恥として、自決したのであろう。享年、不明。
そういえば、詩人、劇作家の寺山修司の祖父、寺山芳三郎は会津、函館戦争では賊軍として、さらに西南戦争では西郷軍として戦い、その先祖は薩摩藩士であったという。かなり眉唾な話であり、少なくとも薩摩藩士が新撰組に入隊することはないし、函館戦争中、榎本、土方のところで戦うことなかろう。ひとつの可能性として、弘前藩には、ふたつの寺山家があり、一つは小人町寺山尚吉、もうひとりは春日町の寺山忠八で、両家とも武芸の家と思われ、この関係者の一人が芳三郎で、千田、菊池、白戸と同じような行動を取ったような気がする。これは全くの妄想で、関係者がいれば、お詫びする。
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